勝つ家庭・負ける国家 |
>All About >「受験は、子どもが頑張るもの」という時代は終わった…東大生作家が明かす「勝つ家庭」の条件 >西岡壱誠によるストーリー・ >2日・ >合格者の約半数が「学力試験のみ以外」で大学に入る時代。 >かつての受験勉強は、過去問を解き、知識を詰め込む「ペーパーテスト一発勝負」が正解でした。 >しかし令和の今、その「普通」はもう通用しません。 >大学入試改革により「大学入学共通テスト」が導入され、出題内容は暗記から思考力・表現力重視へと劇的に変化しました。 >英検や探究活動の重要性も急上昇し、「受験=テスト対策」という構図そのものが崩れつつあります。 >この記事では、東大生作家・西岡壱誠氏の最新刊『知らないと合格できない 令和の受験のフツウ』より、教育の大転換期を生き抜くために、親子が知っておくべき情報や戦略を、やさしく、リアルに解説します。 >一般選抜が「普通」ではなくなった現実 >「受験は、子どもが頑張るもの」 >かつてはそれで通用していた。 >しかし令和の受験において、その考え方はすでに限界を迎えている。 >今や、家庭がどれだけ「受験の前提条件」を理解しているかが、合否を大きく左右する時代になった。 >大学入試改革、英語資格の扱いの変化、総合型選抜や学校推薦型選抜の拡大。 >制度は静かに、しかし確実に変わっている。 >その変化を知らないまま「昔と同じ感覚」で臨むことこそが、最大のリスクなのだ。 >現在の大学入試では、一般選抜だけが主流という時代は終わりつつある。 >総合型選抜や学校推薦型選抜で進学する学生は年々増加し、大学入学者全体の約半数を占めるまでになった。 >これは単なる入試方式の多様化ではない。 >評価の軸そのものが変わったことを意味している。 >ペーパーテストの得点だけでなく、 >・高校生活を通じて何を考え、何に取り組んできたか >・どんな関心を持ち、どのように深めてきたか >・大学で何を学びたいのかを言語化できているか >こうした点が、書類や面接、小論文を通して総合的に見られるようになった。 >「高校3年の夏から本気を出せばいい」「まずは一般選抜が王道」 >こうした親世代の常識は、令和の受験では必ずしも当てはまらない。 >受験は情報戦になった >令和の受験の最大の特徴は、「努力」そのものよりも、どんな情報を、いつ手に入れているかが結果を左右する点にある。 >募集要項、出願条件、評価基準、配点、課される課題。 >これらは大学・学部ごとに大きく異なり、しかも毎年のように更新される。 >「知らなかった」「そんな条件があるとは思わなかった」という理由で、受験の土俵にすら立てないケースも珍しくない。 >この情報格差を埋める手段として、近年急速に存在感を増しているのがSNSだ。 >合格者や受験生本人、保護者によるリアルな発信からは、公式サイトだけでは見えない“生きた情報”が流れてくる。 >・どの活動が評価されたのか >・志望理由書で何が問われたのか >・どの時期に何を準備していたのか >こうした一次情報に触れられるかどうかが、戦略設計の質を大きく変える。 >親も「受験の当事者」になる時代 >令和の受験では、親はもはや単なるサポート役ではない。 >進路選択、入試方式の理解、情報収集の環境づくりなど、家庭全体が受験の一部を担う構造になっている。 >特に重要なのは、「親の価値観が子どもの選択肢を狭めていないか」という点だ。 >たとえば、 >・部活動は受験の邪魔だから辞めさせたほうがいい >・推薦や総合型は逃げ道で、一般選抜こそ正攻法 >・資格や活動より、とにかく勉強時間を増やすべき >こうした考え方は、現在の入試制度とズレている可能性が高い。 >総合型選抜では、部活動や探究活動の継続性が評価材料になることも多く、途中で辞めてしまうことがマイナスに働く場合もある。 >善意のつもりの介入が、結果として子どもの可能性を狭めてしまう。 >それが、令和の受験で起きている現実だ。 >「二正面作戦」を理解しているか >令和の受験では、総合型選抜と一般選抜を同時に見据える、いわゆる「二正面作戦」が求められるケースが少なくない。 >どちらか一方に全振りする受験戦略は、むしろリスクが高くなっている。 >総合型選抜は、多くの場合、年内に合否が決まる。 >その分、準備開始の時期は早く、高校2年生の段階から活動実績の整理や探究テーマの設定、志望理由の言語化が求められることも珍しくない。 >高校3年生になってから慌てて対策を始めても、「積み上げが見えない」と評価されにくいのが実情だ。 >一方で、一般選抜は依然として確かな学力が問われる入試であり、短期間の追い込みだけで対応できるものではない。 >基礎から応用までの理解を積み上げるには、日々の授業や定期テスト、模試を通じた長期的な学習が欠かせない。 >総合型選抜の準備に力を入れすぎて、一般選抜対策が手薄になってしまうと、結果的に選択肢を狭めてしまうことになる。 >だからこそ重要なのは、「どちらを選ぶか」ではなく、「両方をどう並行させるか」という視点だ。 >・いつまでに、どの入試に向けて、何を仕上げるのか >・どの時期に学業・活動・書類準備の負荷が集中するのか >・もし総合型選抜で思うような結果が出なかった場合、次にどう動くのか >こうした全体像を、受験生本人だけでなく、家庭の中でも共有できているかどうかが、令和の受験では大きな分かれ目になる。 >にもかかわらず、 >「推薦があるなら一般はやらなくていい」 >「最悪、一般に切り替えれば何とかなる」 >といった判断が、十分な情報や見通しのないまま下されてしまうことも少なくない。 >総合型選抜と一般選抜は、単に“時期が違う入試”ではない。 >求められる準備も、リスクの取り方も、スケジュール感もまったく異なる。 >だからこそ、二つを並行して走る「二正面作戦」には、行き当たりばったりではない設計が必要なのだ。 >令和の受験で問われているのは、目先の合否だけではない。 >どの局面で、どんな選択肢を持てる状態にしておくか。 >その視点を家庭全体で共有できているかどうかが、結果を大きく左右する。 >勝つ家庭に共通する条件とは >令和の受験で結果を出している家庭には、いくつかの共通点がある。 >・制度の変化を前提として受験を捉えている >・情報を「集めるだけ」でなく、取捨選択している >・親の経験を絶対視せず、アップデートし続けている >・子どもの主体性を尊重し、対話を重ねている >受験はもはや短距離走ではない。 >小学校、中学校、高校と続く長いプロセスの中で、どのタイミングで何を積み上げるのか。 >その設計力が問われている。 >令和の受験において、「知らない」という状態は、それだけで不利になる。 >努力や才能があっても、情報不足によってチャンスを逃す例は後を絶たない。 >だからこそ、家庭がまずやるべきことはシンプルだ。 >受験の前提条件を正しく知ること。 >知ったうえで、迷い、考え、選択する。 >それができる家庭こそが、「令和の受験」に勝つ家庭だと言えるだろう。 >西岡 壱誠(にしおか・いっせい)プロフィール >中高では学力が芳しくなかった。 >2浪という厳しい状況の中で、自分自身の学びを徹底的に見直し、独自の勉強法を確立。 >これにより偏差値35から偏差値70まで成績を伸ばし、東京大学に合格を果たす。 >この経験をもとに、学びに悩む学生たちに希望を届ける活動を展開中。 >勉強法や思考法の研究と実践に基づいた著書は、ベストセラーとなり、多くの受験生や教育者から支持を集めている。
我が国は18歳の学力の持ち主が幅を利かせている東洋の国である。 他人の考えを受け売りするのが子供の勉強であって、自己の見解を明らかにするのが大人の勉強である。 日本の大学は入学するのが難しく、卒業が楽である。英米系の大学は、その逆である。どうしてそのような逆転現象が起こるのか。 日本の大学は18歳の子供の学習成果を測るために選抜試験を行う。これが大切なこととなっている。 英米系の大学は在学している大人の学習成果を基にして卒業を認定する。つまり教育に対する力点の置き方が違っている。 大学の学業成績により学生は、学士、修士、博士の学位が得られる。博士号のない人は学者と認められない。 日本では子供が激しく勉強し、大切な大人の勉強がだらけているという現実は非常に残念なことである。国際社会は大人の戦いである。大人のだらけは亡国の兆しである。 学問の内容は国際的なものですから教育も国際的なものでなくてはならない。そうでなければ教育は、学問に名を借りた国内の序列争いの道具に終わる。 人間の教育を語るときには世界の学問を視野に入れた方がよい。井の中の蛙を育てるのでは、わが国のせっかくの開国の努力に逆行することにないますからね。 高等教育の程度は、’THE世界大学ランキング’‘世界大学学術ランキング’‘QS 世界大学ランキング’を参考にすると良いですね。[QS: Quacquarelli Symonds]
このような教育格差の続く状態で日本が英米と戦争をしたら、子供対大人の戦いになる。 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。 私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)
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