日本のこと |
好きで 好きで大好きで 死ぬほど好きな戦 (いくさ) でも 原爆投下にゃ勝てはせぬ 泣いて崩れた敗戦日。 残念ながらわが国は原爆開発においてアメリカに後れをとった。しかし本土決戦と一億総玉砕はまぬがれた。めでたし、めでたし。 太平洋戦争初期に、フィリピンの米比軍はキング少将もジョーンズ少将も早々と投降して、75000人以上の将兵の命を救った。 太平洋戦争後期に、日本軍は米空軍の飛来をゆるして、1945年3月10日未明、東京の下町の江東地区がB29約300機による空襲をうけ、死者10万をこす被害を出した。 日本人の指導者には、作戦の成否を予測する力はなかったのか。 人の命はどのように考えられていたのか。‘ぬちだ宝’(いのちは宝)ではなかったか。
阿呆は戦争が大好きで亡国の精神の持ち主である。「戦は時の運」とか「戦うも亡国、戦わざるも亡国、戦わずして破るるは、国民の魂も失う真の亡国なり」という言葉があって、わかっちゃいるけどやめられない。ア ホレ スイスイ 、、、、、、、、 日本人には意思がない。意思のない人間には責任もない。責任の無い人には、信頼も得られない。信無くば立たず。(政治というものは 民 (民衆) の信頼無くして成り立つものではない。) [論語・顔淵] たとえば【英対する開戦の詔勅】では 洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ (まことにやむをえざるものあり。あにちんがこころざしならんや。) 開戦はまことにやむをえないことで、私の本意ではない。 となる。 天皇の意思でなければ一体誰の本意で我が国の意思決定が為されたのでしょうか。
責任という日本語には「応答の義務を負う=レスポンシビリテイ・責任」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。 (日本教について イザヤ・ベンダサン=山本七平訳) 昭和天皇は戦争犯罪人に成らなかった。これも天皇がマッカーサ元帥に ‘私に責任があります’ といったからではなかろうか。日本人の習慣がアメリカ人に通じたのかもしれない。
日本人には責任がない。だから昔から責任者を名指しすることが難しかった。一旦事が起これば、責任者捜しのために騒ぎが起こる。日本残酷物語の様な騒ぎになることもある。 肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。 徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)
子供の勉強は他人の受け売りをすること。 大人の勉強は自己の見解を明らかにすること。自己の見解を論文として発表し、英米流の高等教育機関から独創性を認められると、学位が得られる。 日本人は無哲学・能天気であるから、自己の見解を明らかにすることはできない。だから大人は大型の子供の状態にとどまる。受け売りの教育により天下の秀才 (クイズ王) が沢山出来る。 イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。 評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)
大人と子供が戦争をすれば、子供は知恵が足りないので戦いに敗れる。 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。 私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)
やって見せ 言って聞かせて させて見せ 褒めてやらねば 人は動かじ (山本五十六) 日本人には意思がない。それで、全員が指示待ち人間になっている。 意思のある所に方法がある。Where there’s a will, there ‘s a way. 欧米人には意思がある。意思のある人には方法がある。だから有能な人物になりやすい。 欧米人の指導者は有能なグループリーダーになれる。日本のスポーツチームの監督としても活躍している。国際試合にも勝てるので世界の王者になれる。 欧米人の社長は有能な経営者になれる。ユニコーン企業などの大企業を我が国に出現させることもできるので、ぜひ欧米人を我が国の社長に迎えるべきである。 有能な意思を示す人がいれば、力だけを出す多数の人達が救われる世界企業になる。
子供の勉強は他人の受け売りをすること。 大人の勉強は自己の見解を明らかにすること。自己の見解を論文として発表し、英米流の高等教育機関から独創性を認められると、学位が得られる。 日本人は無哲学・能天気であるから、自己の見解を明らかにすることはできない。だから子供の状態にとどまる。受け売りの教育により天下の秀才 (クイズ王) が沢山出来る。 日本人は思考を停止しているから、自分自身の意見を明らかにしない。わが国のマスコミの編集長でも例外ではない。だからいくら外部の情報を流しても、それが社会の木鐸の役割を果すことはない。「それでどうした、それがどうした」の問いに答えが出せないのである。我々日本人は他人の意見の受け売りの仕方ばかりを教えられて、自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だから個人の価値が低い。[木鐸=ぼくたく:世人を教え導く人] 高等教育機関において自己の個人的な見解を論文で明らかにし、その独創性を認められれば学位 (博士号など) が得られる。ぜひやるべき勉強です。
イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。 何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。自己の見解を明らかにすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩により一層の貢献が可能になるでしょう。
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