日本人の「世の中は、、、、、、」の発想法は、遠く万葉の時代から続いている。世の中とは、現実の世界のことである。その内容は、実況放送・現状報告のようなものである。
日本人にとって現実が世界の全てである。その他は、夢と幻である。これらは、実体のない空理空論というか、いわゆる雑念である。
現実に関する発言内容には個人差がない。それで、日本人の発言は没個性となる。
没個性の人間の個人差として取り上げられるものは、暗記と受け売りの能力差である。これが日本では実力として通用する。
大人も子供も、現実という同次元の話に終始する。老若の違いは、ただ現実に関する知識量の多寡による。哲学・創造はない。これらの内容は、現実構文の中の嘘である。だから、日本人は創造の能力は小さい。
「酸いも甘いも知っている」とは、経験をつみ、世事・人情によく通じているということで、まだ見ぬ世界に通じているわけではない。
まだ見ぬ世界は、考えの世界だからである。考えの世界は、実感を伴わない世界である。実感を伴わない世界は、信じることが難しい。だから、実学 (技術) のみがこの国では発達する。
我が国は、個人に意思がなくて、命令がある世界である。命令は、上のほうから聞こえてくる。天の声とも言われている。
ご都合主義の世界である。規則・命令はあるが、誰もその責任をとる個人のいない世界である。
英語では、「意思があるところに方法がある。」(Where there’s a will, there’s a way.)といわれている。
これを逆さにしていえば、「意思のないところに方法はない。」である。
意思は、未来時制の内容であるが、日本語には時制がないから、日本人には意思もない。
だから、日本人には方法がなく、問題をかかえて閉塞感にさいなまれている人も多い。
意思がないから、大衆に対して指導的立場には立てない。無為無策でいながら、苦しい立場に立たされるのが常ようである。
この状態は、ちょうど言語を持たないアニマルの苦しみのようなものかもしれない。役割はあたえられても、解決策の考案は得られない。
Professor Terashima is an accomplished scientist but also an acutely observant philosopher and sociologist whose critical ideas are deeply penetrating. What he writes will give his readers much cause for reflection. His contribution is that he articulates through carefully structured analysis what the Japanese have for a while but only vaguely suspected about themselves.
沖縄県立芸術大学教授 A. P. Jenkins
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