意思は、未来時制の内容である。日本語には時制がない。日本人には意思がない。
自由とは、意思の自由である。意思がなければ、自由も無い。
日本人には能動がなくて、受動がある。'戦争に巻き込まれる恐れがある'、といった具合に発想する。だから、態度がいつも小さくなっている。態度が大きくなれば、恣意 (私意・わがまま・身勝手) が出る。これは、自由のはき違えである。これでは困る。一般的に言って、日本人の能動は、恣意の行動と考えられている。長は何もしないのが一番の功績であると言われている。不自由を常と思えば不足なしか。日本人にはリーズン (理性・理由・適当) がない。だから、リーズナブルな答えは期待できない。滅私奉公するのもやむを得ないとされてきた。
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学者に金持ちなし。学問は、どれほどの役に立つかと質問される。
'あるべき姿' (非現実)の内容には、関心の焦点が集まらない。現実はわかるが、非現実はわからない。
役に立つ (現実)のは、悪人に対しても、善人に対しても同じこと。
だが、'あるべき姿' は、悪人と善人に関して 同じにはならない。
技術には力が入るが、道徳には力が入らない。
'あるべき姿' が自分で考えられないのならば、道徳は他人に決めてもらうしかない。だから、日本人には道徳教育・修身教育が必要になる。これでは、自主的な人間にはなれない。陪審員の責務を果たすことにも無理がある。家畜のようなものか。だが、たしかに金にはなる。
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'あるべき姿’は 'things as they should be' である。これは非現実の内容である。
'今ある姿’は 'things as they are' である。これは現実の内容である。
日本語には時制がないのであるから、非現実の内容は存在しない。もし、非現実の内容を表現しようとすれば混乱をおこす。だから、わが国では英米流の高等教育は成り立たない。
個人の 'あるべき姿’がないのであるから、絶対的な判断基準がない。現実の内容は千変万化する。自主的な判断ができないから、場当たり的な判断をして時流に流される。
自主性がない。指導力がない。信頼がない。だから、日本人は、指導者には適していない。
我が国の教育者は、この点の改善に力を尽くすべきである。