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2014年07月19日(土) 

暗記力ばかりを働かせて、頭でっかちになる。西洋文化に由来した単語ばかりが増えて収拾がつかなくなる。過不足のない統一された非現実の世界を脳裏に構築できない。ああ言えばこう言うといった議論をする。思慮深さがない。教養が身につかないのである。現在時制には、現実と非現実が考えられるが、その理解も難しい。現実は現実で、非現実は非現実として、統一ある過不足のない世界を頭の中に作り上げることが難しい。

非現実の内容から矛盾の除去できないので、理想は空想になる。頭の中は、空理・空論で一杯になっている。だから、頭でっかちである。実のある話は何もない。相手の提案に対しては、消去法で応戦する。'ああでもなければ、こうでもない' と力説する。自分の考えは発表できない。議論はできないので禅問答の手法で逃げる。日本人とは議論できないと諦めさせて決着を図る。

仏教を通じてインド人の考えを輸入しても、日本人は非現実 (過去と未来)の世界に更なる内容を展開するには至らなかった。
明治維新このかた、教育制度を通じて英米人の考えを導入しても、日本人は非現実の世界に筋道をつけて考える考え方を習得できないでいる。

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で禅問答について以下のように述べています。
、、、、 昔、あなたのようにはるばる日本に来た一人の宣教師がいた。彼がある日、銅製の仏像の前で一心に合掌している一老人を見た。そこで宣教師は言った「金や銅で作ったものの中に神はいない」と。老人が何と言ったと思う。あなたには想像もつくまい。彼は驚いたように目を丸くしていった「もちろん居ない」と。今度は宣教師が驚いてたずねた。「では、あなたはなぜ、この銅の仏像の前で合掌していたのか」と。老人は彼を見すえていった。「塵を払って仏を見る、如何」と。失礼だが、あなただったらこれに何と返事をなさる。いやその前に、この言葉をおそらく「塵を払って、長く放置されていた十字架を見上げる、その時の心や、いかに」といった意味に解されるであろう。一応それで良いとしよう。御返事は。さよう、すぐには返事はできまい。その時の宣教師もそうであった。するとその老人はひとり言のように言った「仏もまた塵」と。そして去って行った。この宣教師はあっけにとられていたというが、あなたも同じだろうと思う。これを禅問答と名づけようと名づけまいと御随意だが、あなたの言った言葉は日本教徒には全く通じないし、日本教徒の返事はあなたに全くわからないということは理解できよう。 、、、、、、(引用終わり)

現実の世界では、物事は過不足なく成り立っている。現実以外の世界で、過不足なくものごとが成り立つ世界など見たこともないから、現実から離れることはとてもできない。そこで、‘学問ばかりしていてもだめだ。'実社会に出なければだめだ’となる。そして、現実肯定主義になる。そこには創造力の活用もなく、夢も希望もない。

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閲覧数581 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2014/07/19 09:51
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