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2014年07月22日(火) 




我々日本人のメンタリティを改善するには、以下の5つの観点からの考慮が必要である。

○まず、文章を作れ。
文章があれば意味もある。矛盾があれば、それを指摘できる。
矛盾を排除することにより、正しい考え方が得られる。
すべての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。歌詠みか。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調している。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

○三世界に、同じ文章を作れ。
構文があれば、文章ができる。文章があれば、事柄の内容 (SoA; State of Affairs) を表現できる。
英語は、SoAを現実 (現在)と非現実 (過去・未来) に置くことができる。
そこで、非現実のSoAを現実のSoAに変えることができれば、それは創造力を発揮したことになる。

非現実のSoAは、矛盾がなければ哲学である。正しい考え方である。だが、矛盾を除去できなければ、空想になる。単なる駄洒落で終わる。日本人の非現実の内容に対する観察は、大体この段階で終わっている。
SoAを現実だけに置くことができれば、無哲学・能天気の人になる。現実・非現実の双方に置くことができれば考える人になる。歴史 (非現実) 認識も可能になる。

日本人には現実と非現実は区別できない。現実と非現実の違いは日本語に時制がないので、現実における嘘と本当の違いに還元されてしまう。
あるべき姿と今ある姿は区別できない。頭の中で混乱が起こり、皇軍の敗走も転進に見える。
‘今ある姿’ と ‘あるべき姿’、現実と非現実の並置は日本語脳内では困難。だから、あるべき姿を述べる時には、今ある姿の文章は消えてなくなる。今ある姿を述べる時には、あるべき姿の文章は消えてなくなる。つまり、神がかりとなる。
精神力は気力であって、知力ではない。精神修養は気力を養うものであって、知力を養うものではない。

カレル・ヴァン・ウォルフレン (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造の謎> (The Enigma of Japanese Power) の<”ジャパン・プロブレム”>の中で下記の段落のように述べています。
、、、、、日本の社会でいう “現実” (リアリティ) とは、客観的に観察した結果としての実際の事実というより、心情的なイメージに合わせて構築された、そうあるべき “リアリィティ” だからである。そしていうまでもなく、望ましいと想定されるイメージは、そのときその人の属するグループの利益と一致することが多い。 、、、、、 
西洋では、現実はそうやすやすと管理されたり、意のままに作り変えられたり、相談で決められたりするものとは、考えられていない。つまり、こうあるべきだという任意の考えによって左右されるものとは考えられていない。事実、西洋の哲学または西洋の常識の基礎は、人間にはつきものの自己欺瞞をおさえるには、妄想や幻想を入り込ませないよう常々よく注意することだと教えている。ギリシャ文明以来、西洋の知の発達の歴史を貫いてつねに強調されてきた戒めが一つあるとすれば、それは、「矛盾を育むなかれ」ということである。この戒めは、論理、数学、科学の根本法則である。(引用終り)

○精神力の正体
私は子供の頃、わが国の敗因について、'我が国は精神力では勝っていたが、アメリカに物量で負けた' と教えられた。精神力は気力であって、知力ではない。恣意(私意、わがまま、身勝手)であって、意思ではない。

山本七平は「『空気』の研究」のなかで、緊要な現象を指摘している。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いている。

○暗記力の限界
西洋の学問を日本人が学ぶと、暗記力ばかりを働かせて頭でっかちになる。西洋文化に由来した単語ばかりが増えて収拾がつかなくなる。過不足のない統一された非現実の世界を脳裏に構築できない。ああ言えばこう言うといった議論をする。思慮深さがない。教養が身につかないのである。現在時制には、現実と非現実が考えられるが、その理解はさらに難しい。現実は現実で、非現実は非現実として、統一ある過不足のない世界を頭の中に作り上げることが難しい。

英米文化は、日本人に理解されることなく、脳内で消化不良をおこす。発想法の違いにより、輸入された知識が頭の中で非現実の世界を展開できないでいる。消化されない内容が脳裏に溜まって '頭でっかち' になる。

日本人には意思がない。意思のあるところに方法がある。(Where there' a will, there a way). 無為無策で、座して死を待つのか。望まずして危機に陥る性格あり。あらまほしき内容に、実現の手段は見当たらない。筋がなく、意思のないところに問題がある。そうでなければ、責任者は出ない。

非現実の内容から矛盾を除去できないので、理想を語ろうとしても空想・妄想になる。頭の中は、空理・空論で一杯になっている。だから、頭でっかちである。実のある話は何もない。相手の提案に対しては、消去法で応戦する。'ああでもなければ、こうでもない' と力説する。自分の考えは発表できない。議論はできないので禅問答の手法で逃げる。日本人とは議論できないと諦めさせて決着を図る。

仏教を通じてインド人の考えを輸入しても、日本人は非現実 (過去と未来)の世界に更なる内容を展開するには至らなかった。
明治維新このかた、教育制度を通じて英米人の考えを導入しても、日本人は非現実の世界に筋道をつけて考える考え方を習得できないでいる。

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で禅問答について以下のように述べています。
、、、、 昔、あなたのようにはるばる日本に来た一人の宣教師がいた。彼がある日、銅製の仏像の前で一心に合掌している一老人を見た。そこで宣教師は言った「金や銅で作ったものの中に神はいない」と。老人が何と言ったと思う。あなたには想像もつくまい。彼は驚いたように目を丸くしていった「もちろん居ない」と。今度は宣教師が驚いてたずねた。「では、あなたはなぜ、この銅の仏像の前で合掌していたのか」と。老人は彼を見すえていった。「塵を払って仏を見る、如何」と。失礼だが、あなただったらこれに何と返事をなさる。いやその前に、この言葉をおそらく「塵を払って、長く放置されていた十字架を見上げる、その時の心や、いかに」といった意味に解されるであろう。一応それで良いとしよう。御返事は。さよう、すぐには返事はできまい。その時の宣教師もそうであった。するとその老人はひとり言のように言った「仏もまた塵」と。そして去って行った。この宣教師はあっけにとられていたというが、あなたも同じだろうと思う。これを禅問答と名づけようと名づけまいと御随意だが、あなたの言った言葉は日本教徒には全く通じないし、日本教徒の返事はあなたに全くわからないということは理解できよう。 、、、、、、(引用終わり)

現実の世界では、物事は過不足なく成り立っている。現実以外の世界で、過不足なくものごとが成り立つ世界など見たこともないから、現実から離れることはとてもできない。そこで、‘学問ばかりしていてもだめだ'、’実社会に出なければだめだ’となる。そして、現実肯定主義になる。そこには創造力の育成もなく、夢も希望もない生活が待っている。

○罪・反省・人類の進歩。
意思は未来時制の内容である。意思のあるところに方法はある(Where there’s a will, there’s a way).と言われているが、無為無策でいては、座して死を待つしかない。
日本語脳には未来時制がない。日本人には意思がない。優柔不断・意思薄弱・意思決定に難渋している。
意思がなければ、恣意で動く。恣意に文章はなく、恣意の内容の矛盾は避けられない。だから、恣意の人は挫折する。

意思があれば、加害者意識 (罪の意識)も生じる。だから、必要に応じた贖罪の宗教 (キリスト教)も成り立つ。深刻な反省もする。行動を改めて人類は進歩する。
山本七平は、自著 <ある以上体験者の偏見> の中で、反省の押し売りに関する疑問を、下の段落のように述べています。
、、、、、私が常に不思議に思うことは、戦前の「恥を知れ、反省しろ」であれ、新井宝雄氏の「反省が見られない」であれ、本多勝一氏の「恥としなければならない」であれ、軍隊の「キサマラ、反省がタリン」であれ、「恥を知れ、処決せよ」であれ、たえずこの言葉を口にするこの人たち自身が「自らを律しそれを基準にして生きている主義」は、一体全体、何という主義だったのだろうかという疑問である。(引用終り)

意思がなければ、罪の意識が生じない。あるのは被害者意思だけである。罪の意識のない人達の相手に対する謝罪要求は強力である。相手に‘言わなきゃ損・損’である。考察に深みのない浅薄そのものの人間である。
加害者意識のない人間に対する被害者の抗議は受け入れられないので、当然恨みは残る。解決方法はなく、人々は怨念の世界に常住することになる。贖罪なき世界においては、いたるところで恨めしや―。
罪の意識のない人間に対する強制的な謝罪は、自虐となる。‘空があんなに青いのも、電信柱が高いにも、郵便ポストが赤いのも、みんな私が悪いのよ’ といった具合で、お笑いである。だから、自虐はよくない。
言う側も不満、受ける側も不満。結局、謝罪は成り立たない。

特亜三国人には、現実しかない。だから、考えの範囲が現実内に限られている。現実の外に抜け出す発想法はない。現実と現実の比較に終始する。現実は千変万化する。あくまでも現実にこだわる。嫉妬が激しい。子供の様なものか。
中国人は現実を覇者の国と比較する。
韓国人は現実を絶対序列社会と比較する。
日本人は現実を相対序列社会と比較する。
山本七平は、<ある異常体験者の偏見>の中で、絶対化について述べている。「日本軍が勝ったとなればこれを絶対化し、ナチスがフランスを制圧したとなればこれを絶対化し、スターリンがベルリンを落としたとなればこれを絶対化し、マッカーサーが日本軍を破ったとなればこれを絶対化し、毛沢東が大陸を制圧したとなればこれを絶対化し、林彪が権力闘争に勝ったとなれば『毛語録』を絶対化し、、、、、、等々々。常に『勝った者、または勝ったと見なされたもの』を絶対化し続けてきた―――と言う点で、まことに一貫しているといえる。」と述べている。

英米人は現実を 'あるべき姿' (非現実) と比較する。だから、その主張内容は、universal (宇宙全体)、global (地球全体) に及ぶ。考えが現実を打破して外に出る方策に及ぶ。革新的である。

英米人は頭を使う仕事に向いている。特亜三国人は手先を使う仕事に向いている。お互いの相手の長所を認めあって密に協力しあえば、人類の進歩は更に加速する。
時制ある言語・英語を特亜三国(日本・韓国・中国)の公用語と定めて、我々が哲学・大同の内容を作る可能性を持たせる。各国民は、小異 (現実)を捨てて、大同 (非現実)につく。大同団結して未来社会の建設に協力できるようにする。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
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閲覧数976 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2014/07/22 11:37
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