意思のあるところに方法は有る。日本人には意思が無い。解決すべき問題が有っても無為無策でいる。座して死を待つしかない。望まずして危機に陥る民族である。
<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れる。その一例を以下に掲げる。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)
意思を示せば当事者・関係者になる。示さなければ、傍観者にとどまる。日本人には意思が無い。優柔不断・意志薄弱に見える。我が国は、世界に中にあって、世界に属していない。
自由とは、意思の自由である。意思が無ければせっかくの自由にも価値がない。不自由を常と思えば不足なしか。
意思が無くても恣意 (私意、わがまま、身勝手)が有る。意思の自由を恣意の自由と取り違えると、自由のはき違えとなる。自由のはき違えの対抗策として、伝統的な滅私奉公が必要になる。'不自由を常と思えば不足なし' で満足しなくてはならない。こうした世界に脱出口はない。
意思があれば、加害者意識 (罪の意識)も生ずる。罪の意識があれば、深刻な反省 (贖罪)が必要になる。それで、人類が進歩する。意思が無ければ、無心である。無神論者というべきか。罪の意識がなければ、贖罪の宗教(キリスト教)も必要でない。
日本人の仕事は常に頼まれた仕事ばかりである。自己の意思が無い。ちょうど死刑執行人が殺人罪に問われることのないようなものである。彼らには殺意が無いからである。反省の色もない大人を前にして社会の怨恨はつもるばかりである。
加害者意識というものがなくて被害者意識のみを強調する人々は、自分の罪を意識することなく他人への怨恨の強調に励む人達である。あとには、‘ああいえば、こういう’の議論だけが残っている。このような深刻な反省に至ることのない現実が恨めしい。恨めしや―。
恨めしい人たちは、人類の進歩に背を向けた人達である。罪の文化の欧米人がどこまでこのような人達に同調できるものやら。似て非なる世界に住む人間同士であることが判明するか。
意思は文章になり、議会で発表出来る。討論して、お互いに矛盾の除去に努める。切磋琢磨して意思決定ができる。恣意は文章として発表出来ない。談合を開いてお互いに腹の探り合いをする。腹芸も出る。そこで、手を打つ。だが、矛盾を取りさることはできない。規則はあっても矛盾を抱えて、泣き寝入りをしなければならない。丼勘定の結果である。
意思が無ければ、指示もない。すべては、'良きに計らえ' である。意思が無ければ指導力が無い。責任者には不適格。恣意があれば、意向を示す。これは、我が国の癌である。アニマルは、首に綱をつけて固定しておかなくてはならない。だから、‘長は任期中、何もしないのが最大の功績であった’ ということになる。
責任者である指導者が自分自身の意思をしめす。他の者は、その指示に従う。これは、正しいあり方である。
意思を示さない指導者の下で、他の者が目的の遂行を課せられる場合には、指導力の欠如により、人々は耐えがたきを耐え、忍び難きを忍ぶことになる。目的を達成できなければ、下位の者は責任者からその責め負う。意思なき世界でおこる残酷物語である。
肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。
徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)
意思そのものがないのであるから、意思の内容の矛盾を指摘することも難かしい。国がひっくりかえっても責任者は出ない。
世界観があれば 'あるべき姿' の世界もあり、その実現に向けて使命感も湧く。世界が一つであると信じれば、移行する次の世界の内容は得られない。 未来時制が無ければ、未来に関する文章内容は、すべてが空理空論となる。だから、未来に確たる夢と希望を持つことが出来ない。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調している。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
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