2022年02月12日(土) 

 

>NEWSポストセブン  >石原慎太郎氏の発言から振り返る「無気力な若者」に感じていた危機感  > 2022/02/08 16:15

(略)

> 石原慎太郎氏が2月1日に亡くなった(享年89)。 >石原氏の言動には、批判はあれど誰も無視することができない力強さがあった。 >『週刊ポスト』にだけ語っていた「金言」「暴論」を振り返る。

> * * *

> 石原氏が日本を憂いたのは、「どんどん若い人がダメになってきた」(2012年1月13・20日号掲載。インタビュアー・吉田豪氏)からでもあった。 

 

若い人の間に形式主義の作法が廃れたからでしょうね。   

 

> 日本の若者たちが堕落した理由を石原氏はこう語った。 >「日本のアイデンティティは何かと問われると、今は『我欲』しかない。

 

‘君子は義に喩 (さと) り、小人は利に諭る。’  (論語・里仁) 

日本人は小人のような民族でしょうね。   

私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから彼らは退屈男・退屈女となって大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。       

政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。  

我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。   

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)

TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。

孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)。(引用終り)

我が国には人手不足の話はあるが、頭脳不足の話はない。わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。文に成らない歌詞には意味がない。ああむなしい。   

 

>金銭欲、物欲、そして性欲。>それは衝動的な感情にすぎないが、それを増幅し、媒介しているのが携帯、あるいはパソコンです。  

 

Screen (映画鑑賞), Sports (プロスポーツの観賞), Sex (性慾) を盛り上げる政策は、3S政策と呼ばれて愚民政策の柱として大衆の好みを誘導していますね。政治音痴の日本人が愚民政策にはまり込む原因であり結果にもなっているのでしょうね。つまり、日本人と3S政策は相性が良い。    

 

>テレビでは、温泉、グルメ、お笑いばかり。>これは好ましいことではない」(2011年2月25日号掲載)  

 

そうですね。日本人には3S以外に関心がないというのは好ましいことではないですね。   

 

> 戦後日本では、公的な欲求より私的な欲求を満たすことが優先された。  

 

日本人には世界観がないから確たる世界の内容の表現はない。だから、公的な要求は全て綺麗ごとに終わりますね。つまり、実現の期待が持てない ‘うわ言’ のようなものになりますね。そこで、私的な慾求ばかりになる。      

 

>その欲求は個人的なツールである携帯やマスメディアによって増幅され、画一化された個人が肥大化する時代になった。  

 

そうですね。画一化された個人は没個性になります。個人主義がない。      

 

>特に心配なのが若者の元気のなさだ──そう指摘する石原氏は、なぜ無気力で画一的な若者が増えたのかを問われて、こう答えた。 >「端的にいうと、60年間戦争がなかったからですよ。 >戦争がないのは有り難いことだけど、つまり国や社会全体が緊張した瞬間が一度もなかった」(2005年1月14・21日号掲載。インタビュアー・田澤拓也氏)

 

緊張が無ければ、文化の華が開くというのでなければ意味ないですね。緊張の有る無しに関わらず、わが国では無哲学・能天気の状態が持続したのでしょうね。   

 

> 戦後、アメリカの核の傘に入って経済成長を謳歌した日本は、国全体に「平和の毒」が回って緊張感がなくなり、若者を中心に無気力ムードが蔓延したとの見解である。

 

そうですね。緊張感のないことが平和の毒とは情けない。日本人には意思がない。    

日本人には意思 (will) がない。つまり、無心である。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。おとなしい。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。生きる力 (vitality) が不足している。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

どうやら '指示待ち人間' ができあがったようです。 

 

> では、我欲ばかりの若者をどう教育すればいいか。 >石原氏の掲げる対策は刺激的だった。 >徴兵制のある韓国の若者と日本の若者は人生に対する積極性がまるで違うと主張した上で、次のように語った。 >「若者を救うためには、軍役に就かせるか、あるいは警察、消防、海外協力隊でもいいが、連帯作業の役務に就かせて修練させる制度が効果的だ。  

 

そうですね。ボウイスカウトやカールスカウトも良いですね。   

 

> 携帯、テレビ、パソコンのバーチャルな対人関係によって、あまりにもひ弱になってしまった者たちには、意思に反して強いられる肉体的制約が必要なのです」(2011年2月25日号掲載) 

 

国を守る意思は必要ですね。恣意 (私意・我儘・身勝手) に反する肉体的制約も必要ですね。   

 

> 自民党が野に下っていた1994年、自民党の国会議員だった石原氏は党の政策大綱案として、「二十一世紀への橋」という論文を書いた。>そのなかでも石原氏は、高校を卒業した年齢の子供は、1年間か2年間、軍隊か警察か消防に入る義務を課すべきと記した。> 権利や自由ばかり尊重されるなか、義務と責任を通じて若者を成長させるべきとの主張は、個人主義が進んで連帯感を失った今日の日本社会に痛烈に響く。

 

自由とは意思の自由の事である。日本人には意思がない。だから、意思がなければ自由にも意味がない。意思がなければ責任も無い。   

意思の無い人間には責任がない。これはちょうど死刑執行人の立場のようなもので、彼らは人が死んでも殺人罪には問われない。彼らには殺意という意思がないからである。人々は自己の意思に依ることなく、事の次第・自然のなりゆきにより行動をおこす。だから、リーズン (理性・理由・適当) により行動することが無い。これはアニマルも同じである。説明責任が取れないので、兎角この世は無責任となる。 

‘誰も責任を取りたがらず、誰も自分に責任があると言わなかった。・・・・・ 一般国民が軍部や文民官僚の責任と同等の責任を負っていると心から考えている人はほとんどいなかった。’   (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて 下)       

 自己の意思を示せば、当事者・関係者となる。示さなければ傍観者にとどまる。日本人には意思がないので、常に傍観者になる。序列関係のない深刻な事態にも高みの見物をしている。わが国は世界の中にあって、世界に属していない。 

 

>「新スパルタ教育論」と題したインタビュー(2012年1月13・20日号掲載)では、体罰を絶対悪とする世の風潮に反し、「しつけとは体罰だ」と主張した。 >「体罰はいいんだ。 >身にしみるからね。 >残虐行為とは全く違う。 >立たせるとか男のお尻をたたくとか、せいぜい平手打ちを食らわすぐらいあったっていいと思うな。 >やっぱり、しつけですよ。

 

体罰は必要ないですね。体罰を与える代わりに行為を改めなければならないリーズン (理性・理由・適当) を子供に言って聞かせるべきですね。言葉の通じないアニマルには調教 (体罰) が必要ですね。      

 

>しつけっていうのは刷り込みなんです。 >たとえば九九算ですよ。 >あれは計算じゃなくて、刷り込みで暗記してる。 >それをやらなきゃダメです。 >それをある年齢まで来たときに、とにかく半ば強制的にやれるのは集団生活しかないから」

 

刷り込みであっても体罰を使うのは良くないですね。あくまでもリーズンを通す社会にするべきですね。    

 

> こうした「暴論」は今の若者にどう届くだろうか。  

 

古い時代の教育法と見なされるでしょうね。   

 

>※週刊ポスト2022年2月18・25日号     

 

 

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閲覧数207 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2022/02/12 08:43
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