2022年04月13日(水) 

 

 

>AERA dot.  >欧米人の目を持つ日本人 古賀茂明  >13 時間前

(略)

> ウクライナからの避難民は400万人を超えた。 >最大の受け入れ国ポーランドをはじめ、欧州諸国では感動的ともいえる暖かい支援が行われている。

(略)

> こうした支援活動はもちろん素晴らしいが、一方で、私の心には違和感も広がる。 >それは、昨年来、ポーランドが、アフガニスタン、シリアなどの難民に非常に厳しい対応をしてきたからだ。 > 凍てつく真冬のベラルーシとの国境からポーランドに越境してもポーランド当局によってベラルーシ側に送還される例が後を絶たず、水も食料も尽きて極寒の中で凍死する人も多く出た。 >ウクライナのケースとの落差はあまりにも大きい。

 

そうですね。人間平等は難しいですね。ポーランドもベラルーシも心は一つですかね。        

 

 (略)

> もちろん、ポーランド人の中にも、こうした難民の入国を助ける人々もいたが、多くは見て見ぬふり。 >逆に当局に密告する人もいた。  

 

残念なことですね。我々の理想とは程遠いですね。    

 

> 欧州の人が歴史的つながりの強いウクライナの人々により強い同情心を持つのは自然だ。 >また、ベラルーシが中東からの難民をポーランドに入国できると騙して招き寄せ、彼らを国境沿いに追いやってポーランドに混乱を生じさせようとしたという特殊事情もあった。> ただ、それを割り引いても、中東の難民への対応はあまりにも無慈悲だったのではないか。>その背景には、中東やアフリカの人々に対する偏見がなかったのかどうか。 >それも気になる。

 

日本人とても結果は同じでしょうね。日本人はアジア人でありながら、アジア人第一主義ではありませんね。      

 

> 私は、ポーランドや他の欧州諸国を批判するためにこの問題を取り上げているのではない。

 

そうですね。自分たちの事を棚にあげてポーランドなどの事を批判するのはおかしなことですからね。    

 

>実は、私たちにも当てはまることだから、あえてこの問題を提起しているのだ。 > 欧米の報道をそのまま垂れ流す日本のメディアを通じて海外の情報を入手する日本人は、どうしても欧米人の目を通してしか、世界の情勢を見ることができない。

 

そうですね。日本のメディアの垂れ流しは目に余るものがありますね。猿真似は止まりませんね。日本人の無哲学・能天気の表れですね。       

 

>その結果、私たちの目は、アジアの一員たる日本人の目ではなく、欧米人の目になってしまっているような気がする。

 

私たちの目は欧米人の目でもなく、アジア人の目でもありませんね。これは欧米人は上、アジア人は下という日本人そのものの目ですね。   

日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。      

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅苦しい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。   

日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在を確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、この種の仕事にやりがいを感じている。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だが正一位の獲得は難しい。    

我が民族の序列メンタリティは国がひっくり返った後にも変わりませんでしたね。新憲法の前文には、 ‘・・・・・国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。’ と高らかに宣言しています。地位とは国際社会の序列順位の事で、国際問題に関する問答には関心を持たずにひたすら順位の向上を待ち続ける奇異な民族の代表として存在します。序列メンタリティが邪魔になって問答ができないのか、問答ができないために序列メンタリティから離れられないのか。英語の習得力が不十分なためか。  

 

> 現に、ミャンマーでの虐殺などを見ても、すぐ近くのアジア人が殺されているのに、遠くのウクライナの問題よりも小さなことのように感じている人が多いのではないだろうか。

 

そうですね。それは、ミャンマー人は日本人に低く見られているからでしょうね。   

 

> 先日もTBSの「報道特集」が、国軍と戦うミャンマーの若者たちの声を報じていた。 >民主主義を破壊し、市民に銃を向ける国軍に対して、武器を持って立ち上がった若者がいる。 >彼らは、「ウクライナには世界中が関心を持ち、軍事支援までしているのに、ミャンマーには関心を示してくれない。 >私たちにも支援をして欲しい」と感じている。 >香港や新疆ウィグル自治区の問題でも同じことが言える。

 

そうですね。あらかたの日本人は無哲学・能天気ですから、ノンポリ・政治音痴になっていますね。日本人がウクライナに関心を示すのはそれが流行りになっているからでしょうね。   

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 我が国の ‘かな漢字’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。綴り字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語のかな漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。だから表記法の改革も進まない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。          

為せば成る。為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり。 (上杉鷹山)    

 

> 日本は、同じアジア人であるのに、ミャンマーからの難民受け入れには非常に消極的だが、ウクライナに対しては、林芳正外相を派遣してまで受け入れの姿勢を示した。>この違いが生じるのは、実は、国民世論そのものが欧米中心の見方になっているからこそ、政府もそれを意識した対応をしているという面もある。

 

そうですね。欧米中心の見方はわが国の流行りものだからですね。  

 

>政府批判をしても、ブーメランとなって私たち国民に返ってくるのだ。  

 

そうですね。現在の国民世論は序列社会の結果そのものですからね。   

 

> 私たちは、アジア人でありながら、アジア人の目で見ることができない、欧米人の目を持った人間になっている。 >そして、それに気づくこともできなくなってしまったのではないか。 >私自身も、自らの目を疑うべきだとあらためて感じている。

 

そうですね。我々日本人は思考を停止して、受け売り専門の人になっていますね。   

現実 (事実) は見ればわかる。Seeing is believing. 現実の正解は一つしかない。だから、ご唱和の内容になる。非現実 (考え) の内容は見ることができない。だが文になる。文にならないものは考えではない。

矛盾を含まない文は、全て正しい考えを表している。考えは、一人一人違っている。だから、正解は無数にある。体系的な考えは哲学になる。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy.  思考を停止して人は、つかみどころのない人間になる。日本人には考え (非現実) がない。だから、わが国のインテリは受け売り専門の人になる。     

 

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)  

 

>※週刊朝日  2022年4月22日号より   

 

 

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閲覧数439 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2022/04/13 04:49
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