2023年06月11日(日) 

 

>婦人公論.jp   >養老孟司「〈知っている〉と〈わかる〉は違う。   

>現代の私たちは自然から遠ざかり、身体的感覚を伴う〈わかる〉を忘れかけている」   >養老孟司 によるストーリー • 13 時間前   

>450万部を超えるベストセラー『バカの壁』の著者であり、医学博士の養老孟司さん。   

>物心がついた頃から、自然の世界、そして人との関係について、「わかろう、わかろう」としてきたと語ります。   

>現代の私たちは、何事にも「ああすれば、こうなる」というシミュレーション可能な原則を求めすぎていて、身体的感覚を伴う「わかる」を忘れかけていると、養老さんは話します――   

>(構成:篠藤ゆり 撮影:本社・中島正晶)   

>* * * * * * *  

>「知っている」と「わかる」は違う   

>振り返ってみると、私は物心がついた頃から、「わかろう、わかろう」としてきました。   

>わかろうとした対象のひとつは、自然の世界。   

>大好きな虫捕りや魚釣りに没頭していました。   

>昔は近所の川でもうなぎが釣れたし、蛍もたくさんいましたが、家庭から洗剤が排出されるようになって消えてしまった。   

>そんな変化を目の当たりにしてきました。   

>もうひとつ、わかろうとしたのは人との関係です。   

>私は子どもの頃から、「ここに自分がいていいのだろうか」と感じていました。   

>幼稚園でみんなと一緒にお遊戯なんかするわけですが、居心地が悪いというか、ぴったりはまっていない。   

>みんなはなぜ平気で幼稚園に通っているのだろうという疑問を抱いていたのです。   

>どうにか世間と折り合いをつける方法を探るために、人を理解したかった。   

>そこで、人がやっていることをひたすら観察するようにもなりました。   

>大学院で解剖学を専攻したのもその延長線上のこと。   

>結果的に、ものを言わない相手を見ることは、虫の標本作りと同様、性に合っていたようです。   

>そして、死体と向き合っていると、見ている自分の「意識」に関心が向くようになった。   

>意識というのは、脳の働きです。   

>中年以降は、脳の働きについてわかりたいと思うようになりました。   

>夫婦も親子も、「わからないのが当たり前」   

>でも、ヘンな言い方ですが、意識を意識していると、仕事の邪魔になります。   

>自分の意識を外さないと、科学としての客観性が成立しなくなってしまうからです。   

>その手の話を同僚に吹っかけると、「それは哲学の領域だ」などと言われました。   

>人は、身近な人については特に、「わかりたい」、あるいは「わかってほしい」と思うものです。   

>そういう期待が引き起こす最たるものが夫婦喧嘩。   

>私も若い頃はよく女房と喧嘩しました。   

>女房は茶道をやっていて、茶花を育てているんだけど、あるとき大事にしていた鉄仙をバッタが食べてしまった。   

>バッタを始末してやると息巻く女房に、「バッタが食いきれないくらい植えろ!」と私が怒鳴って……まぁ、そんなような他愛のないことでした。(笑)   

>私自身、「わからない」ことに長年ストレスを感じ続けてたどり着いたのが、「わかるわけがない」という結論です。   

>夫婦も親子も、「わからないのが当たり前」だと思っていると、たまにわかったときに嬉しい。   

>「わかって当然」と思っていると、失望することのほうが多いと思います。   

 

そうですね。考えの内容は人人により違っていますからね。   

 

>「ああすれば、こうなる」を求めすぎている   

>また、本書では、「知っている」ことは「わかる」とは違うということも、さまざまな例を挙げて説明しています。   

>「知っている」は、他人同士が共通認識を持つための情報や記号を、知っているというだけ。   

 

共通認識は試験問題で試されますね。     

 

>「わかる」は、「腑に落ちる」という言葉があるように、身体的感覚を伴うもの。   

 

それは臨場感のようなものか。これは教えるわけにはゆかない。体験しなくては分からない。      

 

>そういった身体的感覚を、現代の私たちは忘れかけているような気がします。   

>理由のひとつは、自然から遠ざかって生きているからでしょう。   

 

そうですね。演奏会に行く代わりにデジタルメモリーから聞いていますね。       

 

>自然は、「ああすれば、こうなる」というシミュレーション可能な原則に従って動いてはいません。   

>人間の都合なんて知ったこっちゃないのです。  

 

人間はそれを勝手に解釈していますね。だから人間は個性的になります。  

 

>ところがAI(人工知能)が進化し、人は何事にも「ああすれば、こうなる」を求めすぎるようになった。   

>そこに大きな問題があります。   

 

そうですね。「ああすれば、こうなる」は頭の中の内容ですからね。頭の外の内容は又別に存在します。頭の中の内容は各人まちまちですからね。だから学問は進歩する。自然は進歩しない。               

 

>身体的感覚を取り戻すために、私は「現代の参勤交代」を提唱しています。   

>都会を離れ、1年に1ヵ月でも田舎に身を置き、身体を使って働いたり、のんびり過ごしたりする。  

>猫を飼うのもいいかもしれません。   

>猫が癒やしになるのは、「ああすれば、こうなる」が成立しないからです。  

 

猫は自由ですからね。忖度がない。   

 

>私は85歳になる今でも、海外にまで虫捕りに行きます。   

>長時間飛行機に乗ることも苦になりません。   

 

身体強健ですね。結構なことです。      

 

>無心になる時間を持つことで、心身のバランスがとれるんです。   

>女房の場合は、茶道でしょうね。   

>茶道には、花や絵、書道の嗜みも必要。   

>道具や器に触れることで触覚が刺激されますし、茶会では香も焚くので嗅覚も鍛えられている。   

>五感をフルに働かせて、小さな茶室が森羅万象、つまり宇宙につながっていることを感じているわけです。   

 

アニマルの感じですね。   

 

>日本の伝統文化は、本来そういった感覚を重視してきました。   

 

そうですね。それは気分・雰囲気の重視ですね。   

 

>自分の肌の内側だけを自分と思うのが現代人のありようです。   

>でも、自分というのはもっと広いし、周囲の自然とつながっている。   

>「わかる」をつきつめると、そんな考えに行きつく気がします。   

 

そうですね。自然へと広がるのが日本人ですね。      

 

 

 

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閲覧数87 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2023/06/11 21:23
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