>AERA dot. >広島とパールハーバー「姉妹公園」締結、原爆の正当化を認めたことに 「広島が広島でなくなる」恐れの声 >高瀬毅 によるストーリー • >12 時間 > 広島の平和記念公園と米国のパールハーバー国立記念公園が姉妹公園になった。 >パールハーバーとの姉妹公園協定は何を意味するのか。 >この動きに、「広島が広島でなくなる」と恐れを抱く人も少なくない。 >AERA 2023年8月28日号より。 >* * * > 投げ入れられた小石が作る波紋は、やがて大きな波となってはね返ってくるかもしれない。 >何かしら胸騒ぎのような、心ざわつく感覚が、いま広島の被爆者や市民の間に広がっている。 > 今年6月22日。 >米国ハワイ州パールハーバー国立記念公園と広島の平和記念公園が「姉妹公園協定」を結ぶと、広島市が発表した。 >しかし当初、このニュースは地元の中国新聞でもそれほど大きく取り上げられてはいない。 >ただ、長年、被爆の問題に取り組み、核廃絶を訴えてきた人たちには、あまりに唐突で、驚愕(きょうがく)のニュースだった。 >「最初知った時、え~、何これ?です」 > 二の句が継げない。 >そんな口ぶりで語るのは、広島市を拠点に30年以上、国際協力や平和教育、文化交流などを行ってきたNGO「ANT-Hiroshima」理事長の渡部朋子(69)。 >「事前に市民に向けてなんの説明もなかった。 >なぜ広島市はこんなことを受け入れたのか。 >なぜここまで急ぐのか」 > 渡部は、中国新聞に、協定への疑問と、協定がもたらす危惧について寄稿した。 >1956年、広島で原子力平和利用博覧会が開かれた。 >被爆者も含め地元はもろ手を挙げて賛成。 >それを機に核を拒絶する意識が大きく変わっていく。 >原発政策が推進され、半世紀のち、東京電力福島第一原発事故が起きた。 >渡部は、それと似た、何がしかの変化を強いる力が働いているのではないかと感じている。 > 原水爆禁止運動の先頭に立った故森滝市郎の次女で、長年、広島で反核運動に力を注いできた春子(84)の懸念は深い。 >「協定を肯定する意見を新聞で読むのがつらい。 >このままでは広島が広島でなくなるという恐れがものすごくあります」 > 広島市が出したプレスリリースに「戦争の始まりと終焉(しゅうえん)の地に関係する両公園」とある。 >始まりはパールハーバー。 >終焉の地は広島。 >この一節が意味するのは、日本軍の真珠湾攻撃で始まった米国との戦争が、原爆投下によって終結したということ。
好きで 好きで大好きで死ぬほど好きな戦争でも 原爆投下にゃ勝てやせぬ 泣いて崩れた敗戦日
>これは米国がかねてから主張している「原爆正当化論」だ。
「世界大戦を含むあらゆる戦争はすぐ終わらせられる。講和条約を結んだ場合、あるいは1945年の米国による広島と長崎への原爆投下と同じことをした場合だ」 (ロシアのメドベージェフ前大統領) 残念ながら大国の政治家の見解は一致していますね。知らぬは日本人ばかりなり。 賢い人は ‘純粋によく観察する’ が、そうでない人は ‘自分の期待したもの’ しか見ようとしない。
>市の捉え方は米国の主張そのものと春子には映る。 >「パールハーバーと平和公園は性格がまったく違う。 >だけど市は協定によって原爆正当化論を認めたことになる」
原爆正当化論は世界の常識ですね。
■広島市外からも疑問の声「現地調査した気配がない」 市の発表を受けて県内10団体でつくる市民団体「G7広島サミットを考えるヒロシマ市民の会」は、6月27日に、市に締結を保留するよう申し入れをした。 >その中心的団体である広島県原爆被害者団体協議会(被団協・原水協系)の理事長・佐久間邦彦も、原爆正当化を容認するような協定を認めることはできないと怒りを隠さない。 >「米国が、大量殺りく兵器を使ったことを被爆者は納得できない。 >戦争だから何をしてもいいということではないですから」
日本人には意思が無い。意思の無い人間には加害者意識もない。有るのは被害者意識だけである。加害者意識 (罪の意識) も無く、被害者意識の中に埋没している。だから日本人の恨みは永続する。これが反核運動の原点であろう。
> 協定には、広島市以外からも疑問の声が上がっている。 >いち早く警鐘を鳴らしたのが、歴史学者で、高校教科書の検定意見をめぐり、教科書裁判を闘った琉球大学名誉教授の高嶋伸欣。 >「広島市側が協定締結を前に、現地調査を実施した気配がない」と指摘する。 >なぜなら、「広島市がパールハーバー国立記念公園の全体像を示す資料をいまもって公表できていないからだ」。
日本人はパールハーバー国立公園の勉強もすべきですね。
>(文中敬称略)(ジャーナリスト・高瀬毅)
イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。 何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
>※AERA 2023年8月28日号より抜粋
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