愛国心 |
>ABEMA TIMES >「愛国心」とは何か?“押し付け”の危険性も 20年前にも与党大論争の過去 >ABEMA TIMES (Microsoft)によるストーリー・ >1日・ >2006年の教育基本法改正時、国を愛する心の明記を巡って与党内で激しい議論が交わされてから約20年が経過した。 >現在もなお「愛国心」という言葉の定義やそのあり方については、政治の場や言論空間において多様な見解が存在している。 >国旗損壊罪を巡る議論をきっかけに、愛国心についても関心が広がる中、「ABEMA Prime」では、言葉そのものが持つ多面性や歴史的な文脈、国際社会における位置づけなど、多角的な視点から「愛国心とは何か」という本質について考えた。 >■「愛国心」とは何か ニュアンスの違い >「愛国心」を巡る公的議論の大きな節目となったのが、2006年の教育基本法改正だ。 >当時、自民党と公明党の間では、法律への「愛国心」明記を巡り、3年間で10回の協議会、70回の検討会を重ねる激しい対立が繰り広げられた。 >当時の自公政権において、自民党は「国を愛する心(愛国心)」という明確な表現を法律に盛り込むことにこだわった。 >これに対し、公明党は「戦時教育を連想させる」として強く反発し、「国を大切にする心」という表現を主張した。 >この議論の末、最終的には「我が国と郷土を愛する」という表現で着地することとなった。 >当時の議事録からは、両党の根強い思想的対立が読み取れる。 >自民党議員が「今のままでは日本を否定する子どもたちになりかねない。 >法律できちんと謳うことが重要である」と主張したのに対し、公明党議員は「法律に書いたからといって、そのような子どもが育つわけではない」と反論。 >さらに自民党側が「教師の態度や学習指導要領に反映させることにより変わる」「子供は教えないとわからない。 >でたらめな教育のせいで今のようになった」と教育現場への反映を求めた。 >これに対し、公明党側は「教育とは一人ひとりの精神性を育てるものであって、愛しうる国家をつくるのは教育の力ではなく政治の責任である」と、国家が法律によって個人の精神性を規定することに強い懸念を示していた。
同感ですね。
>広辞苑において、愛国心は「自分の国を愛する心」と簡潔に記述されているが、その「国」や「愛する」という具体像は一様ではない。 >英語圏においては、愛国心に類する概念が明確に類型化されている。 >番組内では、英訳における3つの概念が提示された。 >1.Patriotism(パトリオティズム:祖国愛):国への愛着や「国をよくしたい」と思う気持ち。 >2.Nationalism(ナショナリズム:国民主義):民族・国家としての一体感や利益を重視する考え方。 >3.Chauvinism(ショーヴィニズム:排外的愛国主義):自国が他より優れているとみなす排他的な考え方。 >日本維新の会の阿部圭史衆院議員は、国連職員としての経験から、「愛国心は他人に強制されるものでもなければ、法律に強制されるものでもない。 >育ってきた環境で自然に醸成され、いろいろな社会的な要因で醸成されてくる。 >これは世界共通のものだと思う」と語った。 >また、元国連職員の立場から、国際的な場において自国への誇りを持つことが他者へのリスペクトにつながるとし、「愛国心と表現するかはさておき、自分の育った地域を好きだ、愛しているというのは自然な感情。 >パトリオティズムだ」と言及した。 >これに対し、研究者・山内萌氏は日本国内における歴史的背景を踏まえ、言葉の受け止められ方にある特有の課題を指摘した。 >「愛国心を説明する時に、英語を3つ持ってきて説明しなければいけないところに、戦後日本のある種のねじれ、平和教育のねじれみたいなものを感じる」と述べ、「愛国心」という言葉が素直に共有されにくい構造的なねじれを浮き彫りにした。 >■国旗損壊罪が愛国心につながる?ネットでも賛否 出演者から「愛国心」の押し付けに対する警戒感や、言葉が内包する多様性を認めるべきだとする具体的な持論が、一連の文脈として示された。 >2ちゃんねる創設者・ひろゆき氏は、国を良くしたいという思いの重要性を認めつつも、それを言葉にして他者に要求する姿勢を批判した。 >「自分の国は良い国だと思ったり、良い国にしたい、変えていきたいと思うのは大事。 >ただ、『私は愛国心がある』『お前は愛国心を持つべきだ』というように、愛国心というキーワードを押し付けたり、主張する人たちはろくでもない」と語り、強制や主張の道具とされる愛国心を批判した。
そうですね。 勿論、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、常に簡単な事だ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ。 (ヘルマン・ゲーリング)
>また、神戸学院大学准教授の鈴木洋仁氏は、愛国心が指し示す対象の広さと、それゆえに個々人の姿勢を一つの枠に当てはめることの危険性を指摘した。 >「愛国心と言った時に、土地を愛するのか、文化を愛するのか、人々を愛するのか、それとも習慣を愛するのか。 >いろいろあっていいものだが、国旗について考える時に、愛国心とリンクさせない方が話としてははっきりする」と述べ、個別の政策と愛国心を結びつけることに疑問を投げかけた。 >ネット上の声も様々だ。 >国旗損壊罪と愛国心の関係について、「良心や表現の自由を妨げる。 >戦前の思想統制のようだ」「愛国心は強要できない。 >良い政治や豊かさで自然に醸成されるもの」「自身の愛国心を他者から強要される謂れは無い。 >愛国心は個々人の想いの中に在る」という警戒感や慎重論が並ぶ。 >その一方で、「愛国心醸成!よい言葉だ」「国旗、国歌、国家を愛せないでその国に居続けるのも私には理解しがたい」といった肯定派の意見もあり、国民感情の乖離が見て取れた。 >(『ABEMA Prime』より)
日本人は思考を停止しているから、自分自身の意見を明らかにできない。わが国のマスコミの編集長でも例外ではない。だからいくら外部の情報を流しても、それが社会の木鐸の役割を果すことはない。「それでどうした、それがどうした」の問いに答えが出せないのである。我々日本人は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だから個人の価値が低い。[木鐸=ぼくたく:世人を教え導く人] 英米流の高等教育機関において自己独自の見解を明らかにすれば、その独創性が認められて学位 (博士号など) が得られる。ぜひやるべき勉強です。
イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。 何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
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