



>東洋経済オンライン >小学校で英語必須化→学力の格差拡大が深刻…英語嫌いだった夏目漱石に学ぶ、現代の「迷走する早期教育」への処方箋 >濱田浩一郎の意見・ >1日・
(略)
>夏目漱石が分析した「英語力低下」の要因
>日本の英語教育に深刻な問題が生じているわけだが、この問題はどう解決すべきか。
>先人に聞いてみるのも1つの知恵であろう。
>東京帝国大学講師として英文学を講じ『吾輩は猫である』『坊っちゃん』などの小説で知られる小説家の夏目漱石(1867〜1916)。
>英語が堪能だったが、10代半ばまでは大の英語嫌いだったそうだ。
>その理由は癇癪持ちの兄から英語を教わったからで「教わる僕は大嫌いと来て居るから到底長く続くはずもなく」と振り返っている。
>転機となったのは、大学予備門に入るために予備校の成立学舎へ入学したことだった。
>漱石はそのとき「大いに発心して大学予備門へ入るために(中略)ほとんど一年ばかり一生懸命に英語を勉強した」のです(夏目漱石『こころの内と外』大和出版、1973年)。
>それまで漱石は漢籍が好きだったのだが、それを一冊残らず売り、夢中になって英語を勉強した。
>するとあれほど英語が苦手だった漱石は「終にはだんだん分かるようになって」きて、1884年、無事に大学予備門に入ることができた。
>苦手意識を克服して英語が得意となった漱石は、帝国大学在学中には鴨長明の随筆『方丈記』の英訳ができるまでになる。
>漱石は「現代読書法」の中で「英語を修むる青年は、ある程度まで修めたら辞書を引かないで無茶苦茶に英書を沢山読むがよい。
>少し解らない節があったらそこは飛ばして読むこと。
>ドシドシと読書してゆくと最後には解るようになる。
>(中略)要するに英語を学ぶものは日本人がちょうど国語を学ぶような状態に自然的慣習によってやるがよい。
>すなわち、幾遍となく繰返しするがよい」と述べている。
>多読と反復学習によって英語力をつけていった漱石は1911年に「語学養成法」(雑誌『学生』)という文章を書いている。
>当時も学生の語学力が衰えてきたとされていた。
>明治後半になり、なぜ学生の語学力が低下していたのか。
>明治時代前半には大学での英語の時間も多く、歴史以外の学科、地理・歴史・数学などもすべて英語の教科書で学んでいた。
>また英語を教えることができる適切な日本人教師もおらず、外国人教師が教授していた。
>よって語学力が高かったという。
>ところが明治も後半になると、外国人教師の多くは大学の教壇から去り、日本人教師が教えるようになる。
>また「国語漢文」が重視される「日本的教育」となったことが、語学力が衰退した要因だと漱石は言う。
>念のため付言しておくが、漱石はすべての教科を英語で習うという状態をよしとしているわけではなかった。
>そうした状態は植民地のようなもので「一種の屈辱」であって「(或る局部は英語で教授してもよいが)矢張り生まれてから使ひ慣れている日本語を用いるに越した事はない」と主張している。
>時代を超えて響き合う、文豪と専門家の「警鐘」
>では語学力向上のためにはどうすればいいのか。漱石は「語学養成法」において、その「改良」策を提示している。漱石は「時間、教授法、教師」の3つ以外には改良すべき方法はないと言う。
>「時間」というのは、外国語教育の時間を増やすということであるが、漱石はこれには否定的だ。
>第二外国語も習う必要があり、「時間の繰り合わせがつかない」と述べている。
>外国語学習の時間を増やすのは無理だとすると「教授法」はどうか。
>漱石は教授法を「肝腎なもの」としながらも、教授法をよく体得した教師が「充分の活用」をしなければ効果はないとする。
>「適当な教師」がいれば教授法が完備されていなくとも、成果は出ると言うのだ。
>ところが漱石は「話すこと、書くこと、読むこと、訳すこと」がしっかりできる教師は「はたして幾人あるだろうか」と「教師」の質についても不安視している。
>ただ漱石は学生の語学力を上げるには、よき英語教師を育てる以外にはないと考えていたのであった。
>また、大学の英文科に入る前に英語を重視した特別教育を行うことも提案していた。
>よき「教師」の「教授」により、学生の語学力は向上すると漱石は考えたのだ。
>前述の江利川春雄教授は、現在の小学校の英語教育の問題を改善するには「授業時間数の再考、指導内容の精選、児童英語教育専門家の配置」が必要だと述べている。
>時代は違えど、両者が導き出した解決策は驚くほど一致している。
>単に英語の時間を増やすのではなく、教育の質を担保する「専門家(教師)」をいかに育てるか。システムをいじるだけの改革から脱却し、この「人」という原点に立ち返ることこそが、現代の日本の英語教育が進むべき王道なのではないだろうか。
>英語よりまず「国語力」が重要?
>英語は「反復学習」が必要であるが、小学校で宿題の量が減らされた結果、反復学習の不足が英語力の格差拡大に拍車をかけているとされる。
>1975年に刊行された高梨健吉・大村喜吉著『日本の英語教育史』(大修館書店)の中でも「英語と日本語ではまったく言語が異質であるから、毎日少なくとも1時間はやらないと忘れてしまう」と書かれている。
>確かに英語を習得するには反復が重要で、英語の授業の時間もある程度は必要であろう。
>しかし小学校や中学校で覚える単語の量が増やされ、習う内容も高度化し、多くの子どもがあっぷあっぷしている現状を放置していては、問題が悪化するばかりだ。
>日本では日常生活において外国語をほとんど必要としない。
>英語の「早期教育」が叫ばれて久しいが、外国語を必要としない言語環境では、年少期から英語を習っても学習効果は上がりにくい。
そうですね。
>それよりも「国語力」を小学生の間からしっかり磨き、中学校から英語を学ぶことが重要なのではないか。
それは繋がりませんね。
>中学校では英語の「授業は英語で行うことを基本とする」(学習指導要領)とされているが、江利川教授は「英語で授業をすれば英語の学習効率が上がるという科学的な根拠はない」と指摘している。
>母語(日本語)の適切な使用が学習効果を高めるとされているのだ。
>ルーマニア生まれの作家・思想家のエミール・シオラン(1911〜95)は「人はある国に住むのではない。
>ある国語に住むのだ。
>祖国とは国語だ」との名言を残しているが、英語教育の前に「国語」の重要性を再認識する必要があろう。
>数学の問題を解くにも、英語を習得するにも「国語力」が必要であるからだ。
日本語には多くの外来語が含まれているが、そのすべてはカタカナ書き日本語になっていて、英語のつづり字は見る影もない。かな漢字により示される日本文に外来語のローマ字 (alphabet) 表現を使用すれば、英語の綴りもその都度覚えられる。
アメリカではなくて、America。オリンピックではなくて、Olympic と書くことである。ついでに、日本語の地の文もローマ字綴りにしたらどうか。さすれば漢字圏以外の人たちにも日本文を音読できるようになる。言語の習得には音読が大切ですから。
我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。
国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語の仮名漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。
「「権威主義」が悪の源でもなく、「民主主義」が混乱を生むものでもなく、それよりも、もっと根底にある日本人の習性である、「人」には従ったり(人を従えたり)、影響され(影響を与え)ても、「ルール」を設定したり、それに従う、という伝統がない社会であるということが、最も大きなガンになっているようである」 (中根千絵)
日本人は氏名を正しく (?) 読むことができない。だから役所の書類にはフリガナ欄が設けてある。これをローマ字欄に換えるだけでも国語の改革になる。これは国の指導ですぐにでもできる国語改革である。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。能率の良い言語の習得には音読が欠かせない。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。ローマ字表記を仮名漢字表記と対等な地位にしてもらいたい。日本語をローマ字表記と仮名漢字表記の二刀流表記の国にすると良い。
'為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり' 上杉鷹山 (うえすぎ ようざん)
我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英文法にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。世界の指導者になれるでしょう。
『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)



