2026年07月11日(土) 

 

>AERA DIGITAL   >なぜ「若い天皇」が担がれたのか 「天皇と権力」が一体化した歴史の転換点   >保坂正康によるストーリー・   >16時間・   

> 徳川幕府を倒した後、日本をどう治めるのか。    

>維新の立役者たちは、その明確な答えを持っていなかった。    

>不安定な時代に、なぜ若き天皇は政治の中心へと押し上げられたのか。    

>ノンフィクション作家の保阪正康氏による書籍『天皇五代と戦争 平成の天皇皇后は皇居で何を語ったか』から、一部抜粋してお届けする。    

>*  *  *    

>■権力と権威の一元化    

> 初めに、基本的な枠組みを説明するが、日本の政治と軍事のありようは、時代によって異なる顔を見せていた。    

> 江戸時代の約265年間は、武家政権である徳川家の幕府に諸藩の武家が従う幕藩体制だった。    

>そこでは天皇(朝廷)が将軍(幕府)に「大政を委任する」というかたちをとっていた。    

>つまり、徳川幕府が政治と軍事の権力を全面的に握り、天皇は権威のみを保っていたのである。    

> そういう権力と権威が慶応3(1867)年10月の大政奉還、同12月の王政復古の大号令によって、天皇に一元化される。    

>ただしそれは、天皇親政を名目にしながらも、天皇の名において臣下の者が政治と軍事の権力を用いるという形式だった。    

>これは権威のみを保ってきた歴史的な天皇の在り方とも異なる、ある種の矛盾を抱えた「天皇制」とも言える。    

> そして戊辰戦争(慶応4年/明治元年〜明治2年)で、天皇勢力を表す「錦の御旗」を掲げて幕府勢力に勝った薩摩藩・長州藩の下級武士を中心とする臣下の者が新政府をスタートさせた。    

>臣下の者は政治と軍事の権力を天皇に付与するが、実際は、自分たちが主体的に政治と軍事を動かし始める。    

> 具体的には、政府が天皇に政治や軍事に関する決定事項を報告し、天皇の許可を得て、天皇の名において詔勅(しょうちょく)などを出すという形態で権力を行使する。    

>ここにはもちろん、参議など政府指導層の人事も含まれる。    

>これが近代国家としての日本のスタート、つまり明治維新であり、明治政府であった。    

> すなわち近代日本の天皇、政治、軍事は、構造的な矛盾を抱えての出発と言えた。    

> そして、明治22(1889)年に公布された大日本帝国憲法によって、天皇に統治権と統帥権(大権)が付与され、臣下の者がそれを輔弼(ほひつ)するというかたちで行使する近代日本の立憲君主制が確定する。    

>「明治天皇と戦争」というテーマを論じていくにあたって、まずこのことを確認しておきたい。    

> そのうえで、この時代の動向を順序だてて追って行くことにしよう。    

> 日本の近代史は嘉永6(1853)年、アメリカのペリー提督が率いる黒船来航で始まったと言える。    

>いわゆる鎖国政策をとっていた幕府は、突然の開国要求を従来にない国難であり、危機的な状況であると受け止めた。    

>むろん朝廷もそのように受け止めたが、幕府から詳細を知らされていなかった。    

>嘉永7年の日米和親条約の締結も事後報告だった。    

>この対応に朝廷は幕府への不満がつのっていく。    

> その筆頭が鎖国攘夷論者の孝明天皇だった。    

>明治天皇の父である。    

>しかし同時に、孝明天皇は幕府への大政委任を堅持する頑固な守旧派でもあった。    

> そして安政3(1856)年、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスが日米修好通商条約の締結を求めてくる。    

>幕府は諸藩の意見を聞き取り、鎖国から開国に大転換する同条約の締結を決意する。    

> ただし反対意見が根強くあった。    

>そこで幕府は朝廷に勅許(天皇の許可)を求める。    

>日米和親条約の締結を見ればわかるように、それまで政策に関して幕府が天皇の許可を求めた前例はない。    

>つまり幕府は、国内をまとめる力を失っていたがゆえに天皇の権威を借りることにしたのである。    

>これは天皇の政治利用の始まりであり、これ以降、天皇が政治の表舞台に立つ時代に入っていく。    

> すなわち幕末の政局は、西洋列強からの圧力にどう対応するか、鎖国維持か開国か。    

>政治主体は幕府か朝廷か。    

>そしてどの勢力が天皇を担ぐのかをめぐって複雑に展開していくのである。    

> 開国政策に勅許を得るという幕府の思惑は外れる。    

> 前述のように、孝明天皇は大政委任の守旧派とはいえ、鎖国攘夷論者である。    

>朝廷の中にも太閤・鷹司政通(たかつかさまさみち)など開国派の有力者はいたが、孝明天皇は「伊勢神宮はじめ神々に畏れ多く歴代天皇に対し不孝」(『岩波 天皇・皇室辞典』「孝明天皇」藤田覚)と、勅許を認めなかった。    

>勅許反対の公家88人が御所に押しかける事件も起こった。    

>つまり孝明天皇らは、外国勢力によって「神国」が汚れ、皇統が存続できなくなることを恐れたのである。    

>■現実は論理と異なって進む    

> 結局、幕府は安政5年、勅許のないまま日米修好通商条約を締結する。    

>そしてロシアやイギリスなどとも同様の条約を結ぶ。    

> この幕府の開国政策に対して、武家や公家の中でも尊王攘夷論、つまり反幕府運動が高まっていく。    

>この勢力を抑えようと、幕府は公武合体してやがて鎖国に戻るという方針を孝明天皇に示し、関係を修復する。    

> 一方で、尊王攘夷派の公家たちと同じ考えの長州藩とが手を組み、朝廷を牛耳っていく。    

>孝明天皇は京都守護職の会津藩・松平容保(かたもり)と薩摩藩の島津久光の助力を得て、朝廷から尊王攘夷派を追放する。    

>幕府も、長州藩が元治元(1864)年7月に松平容保らの排除を狙って「禁門の変」を起こすと、「朝敵」と断じて、第一次長州征伐を行った。    

> しかし幕府は鎖国に戻るどころか、諸外国の圧力に抗うことなく開国政策を進め、孝明天皇も勅許を出さざるをえなくなる。    

>現実はかなり論理とは異なるのだ。    

> こうした幕府の態度をよしとしない薩摩藩が反幕に転じ、慶応2(1866) 年1月に薩長同盟が結ばれると、倒幕運動が盛り上がっていく。    

> 幕府は第二次長州征伐を行うが、その最中の同7月、将軍の徳川家茂(いえもち)が20歳で急死する。    

>家茂は孝明天皇の妹の和宮親子(ちかこ)内親王と結婚していて、いわゆる公武合体の象徴的存在であった。    

>家茂の後を継いだ徳川慶喜は長州征伐を断念する。    

> そして同12月、孝明天皇が満35歳で急死し、慶応3年1月に14歳の皇太子・睦仁(むつひと)が践祚(せんそ/天皇の位につくこと)する。    

>それにともなって追放されていた公家たちが復帰する。    

>この中に孝明天皇の近習だった岩倉具視(ともみ)もいた。     

> 岩倉は蟄居中に、倒幕・開国、そして王政復古の決意を固めていた。    

>そのため、孝明天皇の死因には、「風邪をこじらせた」「天然痘だった」など諸説あるが、岩倉に暗殺されたとの説もあるほどだ。    

>残念ながら、いまだにその結論は出ていない。    

> ここから薩長の下級武士と公家を中心に倒幕運動が一気に本格化する。    

>具体的には大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允(たかよし)、山縣有朋、伊藤博文、岩倉具視、三条実美(さねとみ)らである。    

> しかし、将軍の徳川慶喜が慶応3年10月14日、折しも明治天皇から「慶喜を討て」との密勅(岩倉による偽文書など諸説ある)が薩長に下され、それを察知していたかのように大政奉還を行う。    

>慶喜の狙いは幕府権力の温存だった。    

>倒幕派はそうはさせじと同12月に明治天皇の名において王政復古の大号令を発し、倒幕運動を先鋭化させる。    

>そして慶応4年1月、両勢力が雌雄を決する戊辰戦争が始まるのである。     

>■なぜ若い天皇が担がれたのか    

> さて、なぜ明治政府は、天皇を権力の渦中に組み込んだのか。    

>江戸時代のように天皇は権威のみの存在にしておいてもよかったはずである。    

>なぜ若年の明治天皇を権力と権威が一体化した存在にしたのであろうか。    

> ごく簡潔に答えると、明治維新の中心である薩長の下級武士は政府を統治する権力と権威のかたちについて何のプログラムも自信もなかったからである。    

> 薩長は260年以上続いた徳川家による幕藩体制を確かに倒した。    

>しかし、それに代わって新政府ができたらこういう国家をつくるのだ、というビジョンを全く想定できていなかった。    

 

日本人には世界観がない。未来の世界を可視化する力は無いですね。  

 

>もちろん個々には、土佐藩の坂本龍馬がある種の国家像を持っていたといった見方もあるのだが、主流にはなり得ていない。    

> しかも薩長の下級武士は武力によって権力を奪取した軍事革命集団である。    

 

そうですね。クーデターによる政権ですね。       

 

>その権力を保証する権威は何もない。    

 

そうですね。独裁者は権威主義である必要がありますね。   

 

>つまり、単なる薩長中心の新政府では権力基盤が脆弱で、いつ別の武力に倒されてもおかしくない。    

>なにしろ武士は人口3500万の約1パーセント、35万人超もいて、実際、「不平反乱士族」が全国の各藩に数多いた。    

 

そうですね。   

 

>それをどうやって抑えるか。    

>薩長はまずそこを考えなければいけなかった。    

> だから薩長は、権威を持つ天皇という「玉(ぎょく)を担ぐ」ことによって、いわゆる権力の正統性を調達した。    

 

そうですね。独裁者には自己の正当性を主張するために権威主義になる必要がありますね。民主主義なら良くても悪くても国民の代表という主張になりますけれどね。      

 

>そして、自分たちに対する暴力革命を抑え込んでいった。    

>明治政府の権力基盤が確立していくのは、そのプロセスにおいてである。     

>(保阪正康『天皇五代と戦争 平成の天皇皇后は皇居で何を語ったか』から一部抜粋)    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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