他人任せ |
>テレ朝NEWS >“他人任せ”の安全管理「猛省を」辺野古沖・転覆事故 調査委員会が会見 >テレ朝newsによるストーリー >・2時間・ >女子高校生が亡くなった、辺野古沖の転覆事故。 >明らかになったのは、学校側のずさんな安全管理でした。 >学校側 一度も下見せず >今年3月、名護市辺野古沖で研修旅行中だった、同志社国際高校の生徒を乗せた小型船2隻が転覆した事故。 >高校2年生だった武石知華さん(17)が死亡しました。 >学校側が依頼した調査委員会の会見。 >まず指摘したのは、危機管理や安全管理の体制についてでした。 >特別調査委員会 渡辺徹委員長「同志社国際高校においても、リスク管理本部や危機管理委員会は、規定上の根拠や分担が不明確なまま形骸化し、実効的に機能しておりませんでした」 >2019年に作成された高校の危機管理マニュアルは、2年ごとに行うことになっていた見直しが、形式的なものにとどまっていました。 >また、研修旅行を含む校外活動時の危機管理に関する記載は全くありませんでした。 >そして、事故が起きた辺野古沖の見学コースについて。 >2023年に始まった、この取り組みは、今回の事故で死亡した『不屈』の船長の提案から始まったものでした。 >30日に知華さんの両親が公開した2023年の研修旅行の映像には、海上保安庁のものとみられるボートと並走している様子が記録されています。 >参加した生徒の感想文には、不安や恐怖を感じたことが記載されていました。 >報告書によると、実施に向けて、学校側はボートの大きさや形状、航路や安全性を、現地で下見をしていませんでした。 >天候による中止の判断基準などもなかったため、出航の可否は事実上『不屈』の船長に委ねられていました。 >翌年も、大きな変更もなく実施されました。 >前年の研修終了後、報告する会議はなく、生徒が感じた恐怖も教師間で引き継がれることはありませんでした。 >“他人任せ”の安全管理「猛省を」 >繰り返された安全確認の不備。 >それは今年も変わりませんでした。 >特別調査委員会 渡辺徹委員長 >「本件事故を生じせしめた原因の根底には、多くの教職員において、生徒の身体生命の安全を確保するために何をなすべきかという観点での大きな『想像力の欠如』があった。
日本人は無哲学・能天気ですからね。自分が責任者であるとは思っても見ないですね。
>およそ非難を免れず、猛省しなければならない」
日本人には意思がない。意思のない人間には責任がない。責任者としては不適当な人物ばかりですね。
>調査報告書について、知華さんの両親のコメントです。 >知華さんの両親 >「辺野古コースに関わった、多くの学校関係者の当事者意識のなさが際立っているように思いました。
そうですね。もちろん無責任な人間には当事者意識はありませんね。
>何度も止める機会があったのに、その全てが素通りされてきたこと。
意思のある所に方法がある。Where there’s a will, there’s a way. 意思のない人間には止める機会はありませんね。
>読み返すたびに本当にやりきれない思いが募ります」
日本人には意思がない。意思のない人間には責任がない。だから、事故が起きても責任者を出すことが難しい。この国がひっくり返った時でさえ、政治の責任者は出せなかった。本当にやり切れない気持ちです。外国人もそう思っているかもしれませんね。
>学校法人同志社は「内容の精査および再発防止策等の検討が完了し次第、速やかに記者会見を開催する」としています。
日本人は思考を停止しているから、自分自身の意見を明らかにできない。実況放送・現状報告に終始する。現実の内容ばかりである。 わが国のマスコミの編集長でも例外ではない。現実ばかりがあって非現実の内容 (視点・論点) がない。だからいくら外部の情報を流しても、それが社会に対して木鐸の役割を果すことはない。 [木鐸=ぼくたく:世人を教え導く人] 「それでどうした、それがどうした」の問いに答えが出せないのである。リーズン (理性・理由・適当) の価値は教養により高められる。我々日本人は他人の受け売りを学ぶばかりで、自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だから個人主義がなく、個人の価値が低い。社会に有能な指導者が現れない。 英米流の高等教育機関において、自己の個人的な見解を論文にて明らかにすれば、独創性が認められると学位 (博士号など) が得られる。ぜひ獲得すべき知性の保証です。
イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。 何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
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