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あなたの思考もとらえどころがない。
意思は未来時制の文章内容であり、日本語には時制がない。だから、日本人には意思がない。 自由とは、意思の自由であり、責任とは意思を自由に働かして物事に対処する事である。 日本人には、意思がないから、自由にも責任にも関係がない。我が国は現代社会になれないのか。 自分が相手の意思を求めることもなく、相手から自分が意思を求められることもない。 意思は各人で違っているが、わが国には意思に関する個人主義がない。 意思のある所に方法があるが、無意思の社会であっては、人類に広く影響を及ぼす個人は育たない。 人間に'とらえどころ' がない。'とらえどころ' とは、意思の内容のことである。 日本語の学習ともに英語をも学び、国民が意思の内容を表現できるようになることが我が国の現代化につながると考えられます。 日本人には意思がないが恣意 (私意・わがまま・身勝手)がある。意思を許そうとおもえば、恣意を許すことになる。'自由のはき違え' が起こる。 恣意は、どこの国においても許されるものではない。我が国においては、恣意には '滅私奉公' で対処する。不自由を常と思えば不足なし。恣意の違いには意味がない。これは利己主義 (egotism) である。 このようなわけで、我が国においては個人の意思を示さない状態が民主的であると、歓迎されている。衆愚的か。 日本人の社会では、責任者を探すのに苦労する。個人の意思を認めないから、責任を持つ個人を指し示すことができないのである。冴えた社会には成らない。指導者を変えても、革新的には成らない。 国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。常に意思決定に難渋している。決断の遅れが深刻な問題を引き起こすことも多い。 カレル・ヴァン・ウォルフレンは、<日本/権力構造の謎>の中の <とらえどころのない国家> で、次の段落のように述べています。 国会両院以外に、国家の中核として権力を持っているらしく見える組織は、官僚と大企業である。だが、この両者のどちらにも、究極的な権力はない。ボスはたくさんいるが、ボス中のボスといえる存在はないし、他を統率するだけの支配力のあるボス集団があるわけでもない。首都が国の経済、文化の中心だという意味では、日本は高度に中央集中型の国と言える。東京は、パリやロンドンに負けず劣らず、”すべてのものがある”大都市である。大企業は、中央官庁の役人から離れないよう、本社あるいは重要な支社を東京に構える。主要教育機関も、ここに集中している。予算陳情のためには、地方自治体も国の中央官僚に取り入らなければならない。東京以外には、重要な出版産業も娯楽産業もほとんど存在しない。ところが、この地理的中心地には、政治の中核がないのである。 どの国についても、国家の実態をとらえるのは容易ではないが、日本の場合はとくに、バケツの中のウナギを素手でつかまえる、ということわざのたとえそのものである。指令の流れる経路、責任の中心、見え隠れする政策決定上の実際の動きなどが、すべて気が変になるほど、とらえどころがない。(引用終り) . |