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2009年07月31日(金) 



もしも、大和民族の団結性、信頼性、仕事熱、忠誠心が適当な英語に読み替えられて世界に広められ、日本独特の価値観を反映させることが出来れば、世界はさらに豊かな世界に進むことになるであろう。日本と世界の双方にとって、もたらされる利益は価値観と基準の変化による一時的な混乱とは比較にならぬほど大きなものになるはずである。このことを念頭において、我々は日本人の研究に全力を挙げ、説明しなくてはならないと考えている。

英語を使って考えるときは、現実は現在時制や過去時制の内容であり、考え (非現実) は未来時制の内容である。それに比べて、日本語には時制がない。だから、日本語脳には、常に現実構文のみが存在し、現実と非現実 (考え) の内容を分けて考えることが難しい。

[1.空理空論] 英米の学問では、実験や観察結果は現実の内容であり、考えの内容は非現実である。だがしかし、日本人の学者にはこうした区別をつけることが難しい。それで、現実と非現実の内容に区別を付けることなく話せば、空理空論となる。
わが国の高等教育機関において英米の学問を日本語に邦訳して教えれば、空理空論にしかならない。だから、実社会では役に立たない。我が国の知識人は一般的に価値が低い。

具体的な指摘は受けなくても、大衆は知的低水準のことを半ば本能的に知っていて、大学は遊ぶところだと考えている。現実に基づいた実学 (技術) は例外として、哲学の関係する学問はことごとく役に立たない。教養 (哲学) の教授は価値が低く、専門 (技術) の教授は価値が高いと考えられている。かくして我が国の大学は、学歴があって、教養のない学生の生産拠点となっている。

[2.言霊現象] 非現実の内容が、突然現実になれば、それは我が国特有の言霊現象である。私は戦時中に「日本は負ける」と言ってはいけない、と注意されていた。「日本は負ける」と言ったら、本当に日本は負けるのだそうである。私は黙っていたが、日本は本当に負けた。
「日本は戦争をしない」という理想は、我が国において突然実現した。非現実が突然、現実の内容になったのである。これは、一体誰のおかげであろうか。それとも、独りでに出現するものであろうか。「核廃絶の世界を目指す」という意思表明の方も、このようにして独りでに実現するものであろうか。核のない世界が、この世に突然出現するのであろうか。平和念仏を唱えているだけの現実対応では難しかろう。我々も現実対応策の策定に頭を使う必要がある。

[3.玉砕] 意思を認める言語構造がないから、個人の把握が自他共にできない。つまり、個人主義がない。自己の意思がないから、自主的な方向転換もできない。すでに失敗している方法を何度も繰り返し、日本軍は自滅した。全てを失敗して後に得られるものは自己満足だけである。ああ、空しいか、そうでもないか。

[4.歌詠み] 自己のリーズン (理性・理由・適当) を語るのには、非現実の内容を基準に掲げる必要がある。これを基準にして現実の内容に批判を加える。これは根拠ある主張である。だが、感性を表現するのであれば異次元の世界の内容である根拠・論拠は必要でない。
日本人は、趣味の人である。趣味には論拠が存在しない。(There is no accounting for tastes.) 「なぜ、そのように思うのか」との質問には、「だって、本当にそう思ったのであるから仕方がないではないか」という答が返って来るだけである。

[5.意思と罪と責任] 意思は、未来時制の内容である。だが、日本語には時制がない。だから、日本人は意思薄弱に見える。
自己の意思を示せば当事者となる。自己の意思を示さなければ傍観者となる。それで、日本人は傍観者になることが多い。我が国は、世界にあって、世界に属さずか。

殺意を抱けば、殺人罪である。殺意がなければ、人は死んでも殺人罪には問われない。死刑執行人は殺人罪にならない。
英米人は「良いと悪いは、誰にでもわかる」という。日本人は「良いと悪いの判断は難しい」という。日本人にとって裁判員の役割は荷が重い。
自己の意思を表明すれば、責任を感じることになる。自己の意思を表明しなければ、責任を感じることも少ない。
意思の無い人には罪もない。子供やアニマルのようなものである。
意思を表明して支持を得た政治家には、政治責任がある。しかし、自己の意思を表明することなく当選すれば、責任を感じることも少ない。
だから、意思のない官僚は当番・お役目の気分であることは無理もない。官僚任せの政治では、とかくこの世は無責任となる。

[6.浪花節] 実況放送・現状報告のような現実の内容ばかりを連ねて語り、それに感情を加えて話せば浪花節になる。現実を変える意思を示さなければ、同じ過ちを何度でも繰り返すことになる。これが、歌詠みの空しさである。歌詠みは大人しい人のすることか、それともごまめの歯軋りか。  

[7.被害者・犠牲者] 意思がないのに物事に関係させられると、させられ体験ばかりが山積する。このような人は、指導者に選んでも指導力に欠けている。ただ本人は苦しい立場に立たされたということである。個人の意思を認めない社会では、能動の加害者は一人も見当たらず、受動の被害者・犠牲者ばかりが出てくる。とかく、この世は無責任か。

[8.品評会] 選挙で議員を選ぶ場合も、非現実の内容 (哲学) で個人を選ぶか、現実の内容 (組織・知名度・資金) で個人を選ぶかでは、得られる効果が違ってくる。前者で選べば、人々は希望を持って努力を結集する。後者で選べば、人々は諍 (いさか) いを起こす。それは、現実の問題が多岐にわたっているからである。個々の利益・不利益を乗り越えるような高い目標を持てないからである。小人は、同じて和せずということであろう。

[9.今様] 日本語のような時制のない言語は、現実 (現在時制の内容) のみを語るための言語となる。日本人は、過去と未来の内容を語ることがなく、刹那を語る。刹那は永遠にも通じていると納得顔である。地獄の内容も、未来の内容として語られるよりも、この世の地獄として語られることが多い。このような人たちはナウな感じがする。日本人に今様うたを得意とする民族性は昔からあった。

[10.職人] 「今ある姿」の内容のみを考える人は、12歳の子供のようである。子供は時制を自由に使えないからである。
「あるべき姿」の世界にある内容は、日本語脳においては形をなしていない。それらは夢 (未来)・幻 (過去) となっていて、筋道だった考えにはならず、ただ雑念と呼ばれ打ち捨てられている。それに引き換え眼前の事柄にのみ注意を集中する励みは日本人の得意技であり、日本精神を鍛える修業ともなっている。話にもうつつ (現) を抜かしてはいけない。
目先・手先の事柄に精神を集中できる我が国の職人は世界一優秀である。我が国はあくまでも実業の道に専念し、技術立国の道を歩んで経済大国になった。金融工学は虚業なのであろう。ビジネス・スクールの内容は、日本人からは高く評価されることはなかろう。

[11.能天気] 「あるべき姿」の内容は、非現実であり哲学である。「あるべき姿」を蓄える余地のない日本語脳の持ち主は、当然のことながら無哲学・能天気となる。考えというものはなく、どこに行っても学問が成り立たない。議論が出来ない。だから、英米流の高等教育は、日本語脳の中では成り立たない。 

[12.あなたまかせ] 政治指導者に自己の考えがなければ、軍部に対しても、官僚に対しても、アメリカに対しても「よきに計らえ」と言うしかない。つまり、言いなりになるということである。バカ殿様のようなものか。とかく、この世は無責任。

[13.向上心と地獄] 日本人の励みは向上心によることが多い。高位の序列順位獲得の目的だけがこの世の中の望みになっている。小さな身体に大きな望みを抱いている。未来社会の建設など、頭の中にはない。だから、むなしい。夢と希望がない。

[14.無神論] 日本人は、自分達を無神論者と呼ぶ。無神論の世界に現人神がいる。だから現人神は神 (非現実) ではない。現人神は、人間序列 (現実) の上 (かみ) である。日本人の上は、決して理想の世界には住んでいない。だから、日本人の上は、未来を未来時制の内容として規定できない。既成事実の追認に追われて生活している。だから、日本人の「世の中は、、、、」には夢も希望もない。

日本語には階称 (言葉遣い) がある。英語にはない。日本人は、階称により世俗 (現実) の上下を言い表している。「世の中は、、、」の内容を知らなくては、日本語も満足には使えない。「大学の中にいたのでは駄目だ。本番は実社会に出てからだ」ということになる。「理屈などどうでもよい。現実は見ればわかる」と言って考えを軽視する。

[15.丁寧とぶっきらぼう]  私は子供の頃、「丁寧な言葉を使うように」と先生から指導を受けた。だが、丁寧な言葉を使う人が、特に尊敬できる人物という証拠ではないことが後で分かった。だから、総理大臣を「君」付けで呼ぶ議員の態度を子供たちに真似させても使い道がない。

[16.礼儀作法] 日本人の礼儀は序列差法である。「上と見るか、下と見るか」の言葉遣いに合わせて、その作法を選ぶ。礼儀正しい日本人は、環境に合わせて大きくなったり、小さくなったりしなくてはならない。だが、序列なきところに礼儀なしであり、外国では無礼講となる。日本語教育が正しくなされていないと、礼儀正しい日本人になることも難しい。

[17.意思薄弱と天の声] 日本人には意思がない。意思がなくては、定まった行動には出られない。それで、人々には天の声と掛け声が必要になる。天の声は、文字通り上の方から聞こえてくる。掛け声は、下々が発声する。個人主義に基づくリーズンは不要である。意気と度胸の人生である。無責任の内容の発声である。

[18.権威主義と恣意]  恣意 (私意・我儘・身勝手) は、何処の国でも認められない。だから、恣意を矯正するために滅私奉公が必要である。だが、我が国においては個人のリーズンは要らない。問答無用である。序列の権威により、自己の恣意を相手に容認させることができる。そのとき殿様は家来に「許せよ」という。皆の衆に「甘えさせていただく」のである。シモジモは、それを「ご無理ご尤も」と受け入れる。これは、忠義な日本人である。

[19.恣意と向上心] 序列順位に基づいていれば、自己の恣意は実現する。だから、人々には向上心が湧いてくる。小さな身体に大きな望みは、受験競争の根源になっている。社会は活気に満ちている。

[20.天皇制] 日本人序列の最高位は天皇である。天皇の御前では、全ての日本人は「わし」ではなくて、「わたし」でもなくて、「わたくし」である。この序列の世界は、日本語圏に限られている。人間序列の内容は「世の中は、、、、」の内容であって、世俗的である。異次元の世界である哲学 (非現実) の内容にはない。天皇の権威は世界の隅々にまでは行き届いていない。日本人の考えも、世界の隅々にまでは行き届いていない。
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閲覧数1,187 カテゴリ日記 コメント1 投稿日時2009/07/31 04:34
公開範囲外部公開
コメント(1)
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  • 2011/01/23 11:34
    さん
    お名前:oceanmusic

    eジャン掛川さん、面白いですね。
    まあ、英語圏といっても今は、インドや、マレーシアやアイルランドなど色々な国の英語があるので、一概には言いづらいんですけど。いい所も悪い所もあって。

    自己の意思を表明すれば、責任を感じることになる。自己の意思を表明しなければ、責任を感じることも少ない。

    私の女友達(40代)がこんな事を言っていて、彼女は仕事もすごく出来るのに、責任は取りたくないと言っててびっくしした事があります。

    私は、今北海道の歴史の本を読んでいます。(ご存知かと思いますが)北海道って歴史が130年しかないんです。そのなかで日本人の定義ってなんだろうととか、開国のプレッシャーを受けた時代、そして今ニセコでは(英語)言語の開国プレッシャーの中での日本の立場を比べてみて、とても興味深いところです。
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