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2008年10月08日(水) 



(5) その結果、日本の産業界は「ガラパゴス産業界(世界標準から孤立した産業界)」と呼ばれ、国際競争力を失ってしまったのです。(GDP/人=世界18位) 
学歴あって教養のない本質的には馬鹿な官僚が1~10まで産業界を指導しているのです。
それを官僚にさせているのが、とりもなおさず、我が国の政治家であり有権者です。この人たちは、自分自身の考えのない人たちです。
ただ事実だけを語る人は子供のようであり、事実と考えを混乱させて語る人は知的な人にはなれません。
我が国の恩人・ダクラス・マッカーサの「日本人12歳説」は、もう忘れられてしまったのでしょうか。いずれにしても、日本語脳の持ち主は切って揃えられたような、「世の中は、、、、」の発言ばかりを繰り返している。つかみ所の無い無哲学・能天気の人間になっています。
我々は、意義ある発言をしなければならないでしょう。意義ある発言とは、自分自身の考えた「今ある姿」と「あるべき姿」の関係を述べることです。
この内容には議論の余地があり、その結論は現実の改革に役立つはずです。

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で禅問答について以下のように述べています。

、、、、 昔、あなたのようにはるばる日本に来た一人の宣教師がいた。彼がある日、銅製の仏像の前で一心に合掌している一老人を見た。そこで宣教師は言った「金や銅で作ったものの中に神はいない」と。老人が何と言ったと思う。あなたには想像もつくまい。彼は驚いたように目を丸くしていった「もちろん居ない」と。今度は宣教師が驚いてたずねた。「では、あなたはなぜ、この銅の仏像の前で合掌していたのか」と。老人は彼を見すえていった。「塵を払って仏を見る、如何」と。失礼だが、あなただったらこれに何と返事をなさる。いやその前に、この言葉をおそらく「塵を払って、長く放置されていた十字架を見上げる、その時の心や、いかに」といった意味に解されるであろう。一応それで良いとしよう。御返事は。さよう、すぐには返事はできまい。その時の宣教師もそうであった。するとその老人はひとり言のように言った「仏もまた塵」と。そして去って行った。この宣教師はあっけにとられていたというが、あなたも同じだろうと思う。これを禅問答と名づけようと名づけまいと御随意だが、あなたの言った言葉は日本教徒には全く通じないし、日本教徒の返事はあなたに全くわからないということは理解できよう。 、、、、、、(引用終わり)

現実 (塵) と非現実 (仏) の間に次元の違いによる区別をおかないで語れば、話は上記のようになる。これは日本人の考え方であり、現実と考えを混同した空理空論である。日本語脳の持ち主であれば、こうしたやりとりに時間を浪費することは仕方のないことである。英語脳の人が日本語を使っても空理空論にはならない。だから、我々の空理空論は日本語そのものの性質というよりも、日本語の使い方の問題であると考えることも出来る。だが、正しい考え方を習得するために日本語を利用することは得策ではないことは確かなようだ。英米人は、日本人がなぜ空理空論を語るのかを理解していない。だから、英米人の受け売りを得意としている我が国のインテリからも、その機序を知らされることはない。

インド人は瞑想を通して哲学を築きます。英米人は経験を通して哲学を構築します。
彼らの博士は、一般に哲学博士 (Doctor of Philosophy: Ph. D.) です。我が国の医学博士や工学博士といった現実の匂いのする称号ではありません。
職業教育は、ただ知っているだけでよいのですが、知識人になるには、理解が必要です。高度な職業人を作るには、知識人に職業教育を施す必要があります。
そのためには、メディカル・スクール (medical school) とか、ロー・スクール (law school) といった大学院の教育の充実が必要です。
現実経験は誰でもある。その経験から異次元の内容である「あるべき姿」の世界を展開するためには、英米流の高等教育が必要です。

夏目漱石は、 <マードック先生の「日本歴史」> の中で、日本人の無力さ (無哲学・能天気) について以下のように表現していますね。「丁度 葉裏 (はうら) に隠れる虫が、鳥の眼を晦 (くら) ますために青くなると一般で、虫自身はたとい青くなろうとも赤くなろうとも、そんな事に頓着 (とんじゃく) すべき所以 (いわれ) がない。黄変色するのが当たり前だと心得ているのは無論である。ただ不思議がるのは当の虫ではなくて、虫の研究者である、動物学者である。」つまり、夏目漱石のたとえによれば、「日本歴史」を著したマードック先生は研究する人であり、日本人は研究される虫ですね。

日本人は未来に関する不安を拭い去ることは出来ない。それは、日本語には未来構文がなく、未来の内容が存在しないからであります。
未来の内容が無ければ、それを考えて語ることもできないし、それらを比較して自己の未来を選ぶことも、決めることも出来ません。
だから、日本人は、未来の内容に力を結集して努力を積み重ねることがむずかしい。
この国には何でもあるが、ただ夢と希望だけが見当たりません。「そのうち何とかなるだろう」というその日暮しの有様が不安を呼び起こします。
未来に関する不安を持つ老人は多数いるが、政治指導者には確たる未来構想がない。未来の話は誰からも相手にされない。来年のことを話せば鬼も笑う。その年寄りの金余りの資金を財力に見合った景気回復の起爆剤とすることも難しいです。



Professor Terashima is an accomplished scientist but also an acutely observant philosopher and sociologist whose critical ideas are deeply penetrating. What he writes will give his readers much cause for reflection. His contribution is that he articulates through carefully structured analysis what the Japanese have for a while but only vaguely suspected about themselves.

沖縄県立芸術大学教授 A. P. Jenkins



http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
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閲覧数903 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2008/10/08 07:41
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