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2014年03月18日(火) 

現実の世界は、’世の中は、、、’ の発想法でとらえられている。
非現実の世界は、’あるべき姿’ でとらえられている。
‘あるべき姿’ は ‘現実にはない姿’ で、外国では現在時制以外の時制 (過去時制と未来時制) で語られている。
だが、日本語には時制がない。日本人には、’あるべき姿’ で構成される世界を語ることができない。
日本人には世界観がない。世界観を聴取して人物を評価することができない。
だから、’とらえどころのない人間’ である。

自己に ‘あるべき姿’ (哲学) の内容が持てないのであれば、道徳教育が必要になる。
自己の基準に照らし合わせて物事の良しあしを判断できないのであれば、他の基準により判断するしかない。
ちょうど、野球のルールを知らなければ、野球の審判が務まらないようなものである。自分自身で勝手にルールをつくるわけにはゆかない。
だから、無哲学・能天気の日本人には、道徳教育が必要である。ここでは暗記力を発揮させる必要がある。
‘君に忠、親に孝’ ということである。’とらえどころのない人間’ を ‘紋切型の人間’ に変換する作業が必要である。曖昧を ‘はっきり’ に切り替えることになる。
これで終わりになるものか。これで終わりにならせてはならない。

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っている。
、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリアーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。プラトンの対話篇から、例として『クリトン』をあげてみよう。この対話は、明日の死刑執行を前にして、夜明けに、獄中のソクラテスをクリトンがたずねて、脱獄をすすめるところからはじまる。もちろんソクラテスは寝ている。だがどう読んでみても、ソクラテスが起き上がって、威儀を正して、法の遵守を説いて、クリトンに反論したとは思えない。ソクラテスは、おそらく最後まで寝っころがったままで話しているのだ。従って、この場合、純粋に、ソクラテスの言った言葉 (ロゴス) だけが問題なので、彼の態度や語調は全く問題にされないのである。日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)

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閲覧数852 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2014/03/18 16:32
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