Eugene Henri Paul Gauguin ポール・ゴーギャンは、下記の画題の絵を描いた。'Where Do We Come From? 我々はどこから来たか。What are We? 我々はなにものであるか。Where Are We Going? 我々はどこに行くのか。’(1897-98; Museum of Fine Arts) これらの三つの文章は、それぞれ独立した三世界の内容を表している。過去・現在・未来のそれぞれの時制に対応しているので、他の世界の影響を受けることなく独自の世界を構成できる。だから、欧米人は三世界に関する独立した世界観を持つことができる。 時制と意思には関係がある。日本語には時制がないので、日本人には意思がない。だから、意思決定に遅れる。回答の選択肢を与えられなければ、答えを出すことも難しい。 時制と哲学には関係がある。日本語には時制がないので、日本人は無哲学・能天気である。意思決定の選択しには、大同がなくて小異だけがある。 過去は非現実である。非現実の内容に辻褄が合わせられないと、出鱈目な歴史書が出来上がる。 未来は非現実である。非現実の内容に辻褄が合わせられないと、出鱈目な哲学書が出来上がる。歴史認識の問題にも明快な答えが出せないで難渋する。 日本人は、現実的でないことには耳を貸さない。時間の浪費になるからである。それは、矛盾をたくさん含んでいて、話に筋が通っていないからである。なぜ、文章に矛盾を含んでいるかといえば、非現実の内容を搭載する構文がないから過不足ない非現実の世界を表現できないのである。過不足ない非現実の世界を提示して世界のひとびとから賛同が得られれば指導力を発揮できる。 日本語には時制がない。バラバラな単語では、意味を表すことができない。気分・雰囲気を伝える程度である。歌詠みになる。だから、日本人は気力を重視し、空気の研究が盛んである。何もかも不明瞭でいながら、朧月夜の雰囲気を好む。このような言語の技術力では、宣言文・声明文は書けない。非現実の内容は、実況放送でも、現状報告でもないからである。 過去のことは風化して、幻となる。 未来のことは夢となる。夢は見ることはできても、触ることのできないもの。 どちらも現実とは関係なく、定かにはならないものである。夢も幻も辻褄が合わない。だから、実現しえない、いわゆる雑念である。 非現実を実現すれば、それは創造である。現実を再現すれば、それは模倣である。特亜三国人は模倣が得意で、創造が苦手。北東アジアにパクリ文化圏を形成している。現実には、辻褄を合わせられる。 特亜三国人は、孫文が言ったように「一盤散砂」である。大きなお盆に載っている砂のようなものである。居住地域は広くて人の数は多い。しかし、団結に要する哲学に欠けている。人々は無哲学・能天気である。 だが、非現実に辻褄があわせられないのであるから、未来社会の展望は開けない。あるべき社会の構想が想起できないところが、非常に残念なところである。だから、建設的な提案はない。いわゆる大同がないのであるから、小異を捨てる理由も見当たらない。そこで、小異に執拗なこだわりを見せる。かくして特亜三国は不毛の間柄となっている。国際協力のための北東アジア諸国連合はできそうにない。我々は、もっと賢くならなくてはならない。さすれば、亜細亜軍の創設も実現できる。 http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/ ![]() http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/ ![]() 創造には時間がかかる。模倣による発展なら、時間は大幅に短縮される。経済生活も大幅に改善される。 模倣の得意な国民は、進歩の国民といえるのであろうか。優秀な国民の証拠となるものであろうか。聡明さも中ぐらいのものか。 あるべき姿の内容がなければ、せっかくの経済発展も国際社会のいがみ合いの原動力となる。そして、紛争を引き起こし、再びふりだしに戻る。 現実にこだわり過ぎて、時流に流されている。現実の中に閉じ込められている。夢も希望もない。天下泰平にもならない。ああ、むなしい。 我々は、歴史 (非現実)から学ばなくてはならない。非現実の内容に辻褄を合わせて語ることができるようになれば、歴史書も書ける。歴史から学ぶこともできる。歴史認識もはっきりする。文化国民になれる。 政治家の歴史的知識の利用方法も建設的なものになる。さすれば、国際協調も可能になり、人類は更なる進歩を遂げることになる。 |