原子は、互いに '手' を取り合って分子を作っている。だが、誰も分子の '手' を見た人はいない。それは、ダダの話である。人々がそれを信じて疑わないのは、話に矛盾が含まれていないからである。矛盾のない話は、信頼できる。だから、'考え' とか '理論' と呼ばれて大切にされている。英米の高等教育は、こうした矛盾のない話を作り上げる人間を育成することにある。これは、日本人の好きな単なる語学研修の過程ではない。 総論賛成、各論反対。総論は大同である。各論は小異である。 小異を捨てて、大同につけば大勢の人が社会建設に一致協力できる。しかしながら、大同の内容がなければ協力は不可能であるし、小異を捨てるわけにもゆかない。 議論は、個人的な世界観比べである。だから、無哲学・能天気の人には論争はできない。来たるべき世界の表現ができないから、不毛の議論・論争にしか成らない。足して二で割る妥協しか残されていないのか。これでは、矛盾退治には成らない。 非現実の内容を矛盾なく展開することができないので、世界観を持てない。文章にならないものは、意味もなく、矛盾もない。議論もなく、歌詠みになる。非現実であるということは、現実にはないということで、考慮する必要のない雑念であるということである。日本人は '反対・反対'と常に (小異を)叫んでいても、建設的な (非現実の)方向に力を合わせることにはならない。だから、現実の世の中は、変えられない。 イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本教徒>の中で、議論のできない日本人について次の様に述べています。 、、、、だが彼 [ハビヤン] は常に、その「破棄した部分」しか口にせず、その「内なる自らの基準」は明示していないのである。これは、、、、、今の日本人も同じであって、「反論」はできるが、その反論の基準となっている自らの思想を理論的・体系的に明示せよと要求すると、できなくなってしまう。従って日本人には論争は不可能である。だがそれでいてこの状態を日本人は"科学的”と考える。、、、、(引用終り) タダの話であっても辻褄が合えば歴史書もかける。戦後史も、戦時中の歴史も、戦前の歴史も書ける。千年前の歴史も、一万年前の歴史も、百万年前の歴史もかける。一億年前の歴史も、、、、、、、、。 カレル・ヴァン・ウォルフレン (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造の謎> (The Enigma of Japanese Power) の<ジャパン・プロブレム>の中で下記の段落のように述べています。 、、、、、日本の社会でいう “現実” (リアリティ) とは、客観的に観察した結果としての実際の事実というより、心情的なイメージに合わせて構築された、そうあるべき “リアリィティ” だからである。そしていうまでもなく、望ましいと想定されるイメージは、そのときその人の属するグループの利益と一致することが多い。 、、、、、 (引用終り) 望ましいと想定されるイメージとは、戦前の’日本は必ず勝つ’ といった力説のようなものか。理路整然と勝利への道は説明されていたのであろうか。 カレルは、さらに続けて以下のように述べている。 西洋では、現実はそうやすやすと管理されたり、意のままに作り変えられたり、相談で決められたりするものとは、考えられていない。つまり、こうあるべきだという任意の考えによって左右されるものとは考えられていない。事実、西洋の哲学または西洋の常識の基礎は、人間にはつきものの自己欺瞞をおさえるには、妄想や幻想を入り込ませないようつねづねよく注意することだと教えている。ギリシャ文明以来、西洋の知の発達の歴史を貫いてつねに強調されてきた戒めが一つあるとすれば、それは、「矛盾を育むなかれ」ということである。この戒めは、論理、数学、科学の根本法則である。(引用終り) 意思がなく、恣意 (私意・我儘・身勝手) の発言の横行する我が国では、論理、数学、科学の発達は相対的に良くない。 . |