田中宏巳氏 |
>AERA DIGITAL >「勝てない相手」となぜ戦ったのか 「対米依存」を直視せず、日本が針路を誤ったワケ >田中宏巳の意見 >・1時間・ > なぜ日本は太平洋戦争へと突き進んだのか。 >その答えは戦略の失敗だけでなく、産業・経済の構造的欠陥にあった。 >米国への依存を深めながら対立を選んだ矛盾、精神論に傾き現実を直視できなかった軍部の姿——。 >発掘資料から戦争の実像に迫った書籍『誰も知らない「太平洋の戦争」』(田中宏巳)から、その核心を紹介する。 >* * * >第2章:ラバウルへの進攻 >(1)変化に鈍感な日本人 >■進行する変化への対応 > 江戸時代末期、日本にやってきた欧米諸国は、国土が狭く政治経済の中心が海岸部にあった日本を、簡単に攻略できそうだと思ったらしい。 >幕末の頃、英国はかなり詳細な日本占領計画を持っていたし、日露戦争以前のロシアも日本占領計画を持っていた。 >これらの計画は空想的性格のものでなく、その気になればいつでも実行できる具体性の高いものであった。
日本人には現実 (事実) があって非現実 (考え・哲学) がない。だから、日本人の計画は空想になる。
> これに対して日本は、自国にロンドンやサンクト・ペテルブルクを落とす力がないことを自覚し、そのような大それたことなど想像すらもしなかった。
それはそうでしょう。日本人は現実肯定主義者ですからね。未来に関する情報は皆無。一寸先は闇。
>大正・昭和になり日米開戦が話題になった時、水野広徳(ひろのり/海軍出身の文筆家。日米非戦論を主張)のように「日米若し戦はば」でハワイ空襲を言い出す者がいても、ワシントンを落とすことなど夢にも考えなかった。 >欧米諸国に対する強いコンプレックスがあり、たとえ過激な国粋主義に染まっても、そこまで夜郎自大に陥る者はいなかった。 > 現実を直視すれば、来航する敵を待ち構え、邀撃する方法しかないと考えられた。 >これこそが、近代において日本が追求した軍備と国防思想の特徴であった。 >日露戦争後、海軍は日本海海戦をモデルにして、東亜に戦いが起これば米艦隊が来航してくるものと確信し、その際の邀撃作戦について研究を重ねた。 >第一次大戦で航空機や潜水艦の能力が認められ、その後も著しい発展を見せると、これらを生かす「漸減作戦」が新たに考案された。 >東亜の戦いに米艦隊が来航すると信じて疑わなかった海軍は、これらの漸減作戦を幾通りか織り交ぜた邀撃作戦へと発展させた。 > 日露戦争後、大陸が陸軍の戦場であり、太平洋が海軍の戦場であることは、先に触れたように「帝国国防方針」において間接的表現で文章化され、これ以降、了解事項として継承されていった。 >お互いに異なる土俵では何ができるわけでもないので、自然にそのようなところに落ち着いたのだろう。 > だが航空機がますます進歩し、通信技術も飛躍的発展を遂げるようになると、両者の担当にも変化が生じる可能性が出てきた。 >どのようなものであれ永久不変なものはなく、陸海軍の取り決めも、周囲の状況とともに変えていかなければならない。 >しかし日本人は、徐々に進行する変化を的確に読み取り、対応するのがうまいとはいえない。
そうですね。日本は全て後追いですからね。
>中国大陸をめぐって米国との対立を深めた経緯は、そうした典型例のように思われる。 >■米国への依存を深める日本の産業 > 第一次大戦によってヨーロッパとの通商・交流が途絶えた際、代わりに米国との通商が急増し、工業技術をはじめ米国のさまざまな生活物資、文物がどっと入ってきた。 >近代産業の基幹が製鉄業であることは、独宰相ビスマルクが残した「鉄は国家なり」の名言を聞くまでもなく、鉄の生産量が一国の経済力を推し量る上で最も信頼できる指標であったことを示している。 >日本経済は、第一次大戦中に米国の鉄鋼輸出禁止策のために酷い目に遭いながら、戦後になると一層米国依存を深めた。 >高炉が数基しかない日本の製鉄業は、米国から銑鉄や屑鉄、鋼材を輸入して何とか需要を満たした。 >鉄鋼が米国からの輸入頼みの構造は、日本の産業基盤が極めて脆弱であることを如実に表していた。 > 第一次大戦後の顕著な変化は、西欧諸国に代わって米国が世界の政治・経済のリーダーにのし上がったことである。 >大戦中に西欧諸国との通商が事実上遮断され、米国との関係を深めることでどうにか活路を見い出した日本は、米国の影響を一層受けやすい体質になった。 >大戦後、米国の工業製品や生活スタイルが幅をきかせ、時代を象徴する電気機器や自動車もほとんどが米国から入ってきた。 > 昭和になっても日本経済は米国の影響を強く受け続け、最先端の電気化学工業、工作機械工業、航空機や自動車工業は米国からの技術輸入、製品輸入に全面的に依存するようになった。 >こうした産業構造を見れば、国内の思想的動向はどうであれ、米国との対立は好ましくなかった。
そうですね。今も昔も変わらない。
> 国粋主義・国権主義が台頭する一方で、経済面では基幹産業をはじめ先進工業も対米依存を深めた。 >その流れは、日本の進路選択を極めて難しいものにした。 >国家戦略がないことに原因があるのだが、国家も国民も日本が置かれた現実を正しく認識しなければならなかった。
我々はどこから来たか、我々は何者であるか、 ‘我々はどこに行くのか’ の哲学的命題に答えを出す必要がありますね。そうでなければ、我々は社会建設に支障をきたしますね。
> 昭和十一(一九三六)年五月、陸軍の強い要請を受けて「自動車製造事業法」が成立した。 >ここで米国のフォードらのメーカーを排除して自動車国産化路線に舵を切った意味は大きい。 >しかし、日米の技術水準、基盤産業、部品製造産業等には、五年や十年で縮められないほどの大きな格差があった。 >陸軍の指導者はこの現実に無関心過ぎた。 >陸軍の動きは、現実を正確に捉えず、勢いにまかせて突っ走る姿勢で、自動車製造事業法は何らの成果をもたらさず、開戦後、戦地に派遣された将兵に大きな不便をかけることになった。 >「支那事変」勃発の際、陸軍の砲弾増産の要請に対して関西の中小製造業者が応じなかったため、現地部隊は砲弾の不足に苦しみ、作戦を計画通りに進められなかった。 >これまで社会の商慣行をないがしろにし、製造業者や下請け業者にさんざん苦渋を味わわせてきたツケが回ってきたのである。 >陸軍大臣がわざわざ阪神地方を訪ね、業者や組合に頭を下げて回った挿話が残ったほどで、産業界を無視しては戦争ができないことを痛いほど思い知らされたはずである。
貴重な教訓も役には立たなかったようですね。国民に学習能力がないのでしょう。
> しかしながら所帯の大きな陸軍には、天皇主義・国粋主義の宗教結社や右翼団体と強く結びついて、精神論ばかり唱える軍人が多かった。
日本人には意思がない。あるのは恣意 (私意・わがまま・身勝手) ばかりである。精神論は気合を入れて「エイやー」とやることでしょう。
>産業界に敬意を払い、生産向上のために努力する軍人は、ほんの一部に止まった。 > 日本の産業が米国の強い影響下にあり、産業全般だけでなく、軍事に不可欠であった石油、鉄鋼、工作機械等の調達が米国頼みであった実情の下では、米国との対立はつとめて避けなければならなかった。 >しかしながら日本は、大正から昭和にかけてのこうした産業界の実情を正しく読み取っていなかった。 >身の回りを見渡せば気づく実情さえ見誤り、勇ましい言動に揺さぶられ、対応策を誤ったと言わざるを得ないのである。
そうですね。日本人は正確な知識の収集もなく、行き当たりばったりでしたね。
>(書籍『誰も知らない「太平洋の戦争」 島嶼戦――マッカーサーとの激闘の真実』から一部抜粋)
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