北東アジアの不安定要因は、人々のつたない考え方に起因していることが多い。
現在の内容は事実・現実である。
過去と未来の内容は想像・推測の産物である。だから、それらは非現実である。
現実の内容は個人による違いがない。だが、非現実の内容は人・人によって違っている。それをあたかも現実の内容のように話し、聞き手もまたそのように受け取っている。
過去と未来の内容に辻褄を合わせるためには、それぞれの文章が必要である。インド人ならば、前世・現世・来世となる。
現在・過去・未来の文章に分けるためには、時制が必要である。
そうでなければ、内容は時系列になる。時系列の内容では、語っている内容が現実のことか非現実のことかが、話している本人にも聞いている相手にも区別できない。
世の中は、、、、の発想形式だけになる。論語のようなもので、それぞれの独立した世界を描くことができない。
非現実の内容を現実の事として語れば、それは真っ赤な嘘になる。想像・推測の産物を目の前の事実・現実と混同して語れば、当然虚偽となる。
過去と現在の世界の間、現在と未来の世界の間に、考えの上での越えることのできない断裂が必要である。
学問は温故知新と言うが、温故の内容にも知新の内容にも辻褄を合わせる必要がある。そのための文章がなくては、内容に辻褄を合わせることはできない。
過去と未来の世界を限りなく展開してゆくためには、それぞれの内容から矛盾を排除しなければならない。そのためには、それぞれの世界に専用の文章が必要である。
筋の通った文章を作るための文法が時制である。これは正しい考え方をするための道具である。
日本語には時制がないから、未来に関する筋の通った考えはない。一寸先は闇だ。
理想・構想を語れば空想・妄想となる。だから、日本人は未来に関する個人の考えに着目しない。日本の鬼も笑っている。
時制があれば、それぞれの世界が表現できて、矛盾淘汰のための議論もできる。
そうでなければ、現実と非現実の世界が頭の中で混乱して、ああいえばこういうという言い争いになり、不毛の議論に時間を費やすことになる。
特亜三国 (日本・韓国・中国)の言語には時制がない。特亜三国人の脳裏には、過去・現在・未来それぞれの世界観がない。
時制を学ぶことが、特亜三国人の教養となろう。そのためには、英米流の高等教育は欠かすことができない。
過去と未来の世界観が正しいものとなれば、小異・現実を捨てて大同・未来につく話し合いもできる。未来の国際社会の建設的な話し合いも可能になる。
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