議論とは,各人が自分の「あるべき姿」を表明して,その現実対応を考えることである.
つまり,各人が基準を示して,現実に改良の手を加えるわけである.
基準となる「あるべき姿」は,未来構文の内容である.個人による差異を表す作業である.
日本語には時制がないので,日本人の発言は現実構文の内容だけになる.没個性の根源である.
現実の内容にだけ神経を集中していては,横並びの比較しかできない.
基準となる「あるべき姿」は,日本人の脳裏に確たる姿を現すことはない.
「あるべき姿」がなくては,真の (アングロ・サクソン流の) 議論はできない.つまり,未来構文の内容と,現実構文の内容の比較にはならない.
日本人の議論は,事実関係 (現実構文の内容) 調べに類したものに終わる.個人による違いを無くする作業である.
日本人は,議論の仕方を知らないので,英米人の言うなりになるか,反骨精神を貫くかである.
どちらも無理となると,「我,関せず」と現実逃避を決め込む.
英米人との成熟した大人の関係が結べない.
我が国は,英米の世となった世界の中の孤児である.
英語を習得し英語で考えることができれば,我が国の苦境は克服できる.
現実肯定主義者は,「現実は否定できない」と言う.現実を現実により否定しようとすれば,事実関係調べとなる.
英米人のように現実を批判し否定するには,別次元の基準が必要である.
別次元の基準は,「あるべき姿」の考えである.
「あるべき姿」は,未来構文の内容である.だが,日本人にはこれがなく,無定見・無批判である.
それは,日本語に時制がなく,未来構文の内容がないからである.
「日本を変えよう」というが,進歩の方向を指し示すことができない.
それで,「あやまちは,くりかえしませぬから」の言葉をよそに迷走する.
その迷走が危険な遊びなのである.
日本人の思いは,考えではなく感じである.
感じも技術も現実のことである.これらは,日本人の誇る現実世界のことである.
だがしかし,現実肯定主義者は現実に流される人たちである.
我が国は,相も変らぬひ弱な花である.
855文字
Professor Terashima is an accomplished scientist but also an acutely observant philosopher and sociologist whose critical ideas are deeply penetrating. What he writes will give his readers much cause for reflection. His contribution is that he articulates through carefully structured analysis what the Japanese have for a while but only vaguely suspected about themselves.
沖縄県立芸術大学教授 A. P. Jenkins
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