実況放送・現状報告の類の内容は、日本人でも議論になる。だが、非現実 (過去時制と未来時制) の内容は、日本語の文章にならないから議論にならない。
意思は未来時制の文章である。意思を議論にのせることは難しい。だが、意思のないところには方法がない。座して死を待つか。それとも進んで玉砕するか。危険を避けることは難しい。
話に筋があるならば、それを理解するということもわかる。だが、筋がなくて、話を理解するということはいったいどういうことなのか。
‘とにかく、‘私の話を聞いてください’というのは、 ‘ばかだなあ、この人は、、、、’ と思って話を聞くことではない。’何が何でもこちらの言い分を受け入れろ’ という意味を含めて頼んでいるのである。
恣意には文章がないから、正しいかどうかは議論できない。つまりそこには、どうしても容認してほしい、あるいは我慢してほしいという甘えの意味が込められていて、「わかってください」、「ご理解ください」となっている。
これは、子供が恣意の容認を迫るときの態度と同じである。甘えさせてもらいたいのである。以心伝心か、恣意の空気をみなぎらせている。これが已むに已まれぬ大和魂か。空気の研究が必要である。
文章がないのでは、話の筋道を立てて相手を説得するわけにはゆかない。だから「私の言っていることが客観的に正しいかどうかはともかく、とにかく私の言うことを受け入れてください」という意味になる。
靖国参拝に対する安倍首相の態度のようなものか。高位の人の態度は、今も昔も同じである。
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