私が4才の時に、大東亜戦争は始まった。5才、6才、7才と3年8か月戦って、8才の時に戦争にまけた。戦いには敗れたが、城主は切腹することもなく、城に火を放つこともなかった。古式ゆかしいことは何もなかった。私が子供なりに不思議に思ったことは、戦時中、わが軍が敵国の首都ワシントンに攻め上る方策をだれも語らないことであった。どうして、この戦争が決着するのかを国民に語らないで努力の方向がどうして決まるかであった。方策が明らかになれば、その成功・不成功も明らかになるが、一寸先が闇の状態では、事の成否は論じることはできない。暗中の模索ならぬ努力を求める指導者は、暗愚なのであろう。
日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。
日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。
それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。
英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。
日本人は外交を知らない。(引用終り)
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調している。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
生涯のつまずきを避けるためにも我々は発言を文章にして語ることが大切である。だが、日本語の場合は、時制がないので、英語のように異なる次元の文章を並置した上で比較して自らの結論に導くことはできない。だから、英米人のような大人の話はできない。そこで、以心伝心・不立文字となる。こうした精神状態では、国際社会に立つことはできない。彼らの言語では、考えは必ず文章になる。文章にならなければ、考えではない。
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