>東洋経済オンライン >勉強せず「バイトに合コン」彼が悩む大学行く意義 将来に向けてどう有意義な時間に変えるか >安井 元康 の意見 • 昨日 13:00 >もうすぐ大学2年生になる者です。 >最近何のために大学に入ったのか、そして今何をするべきなのかがちょっとわからなくなってきました。 >周りを見てもバイト三昧、合コン三昧で試験前にちょっと勉強する程度という感じで、特段何かやっているわけではなく、そんな何でもない日常をSNSでシェアしたりしていますが、正直なところ生産性のある生活ではない気がしてます。 >もちろんそんな一流校ではなく、自由闊達な雰囲気のある大学ではあり、そこが魅力なのですが、どうもこれでいいのか?という気持ちもやはりあります。 >高い学費を出してもらっている親にも申し訳ない気持ちもありますが、みんなそんなもんなのかとも思い日々だらだらと生活してしまっています。 >何か将来に向けてやるとしたらどんなことがよいのでしょうか? >YJ 学生 >大学生の間にやるべきいちばんのことは、自分が持てうる最大限の可能性を将来開花させるべく視野を広げ、自分にとってのリアルな将来の選択肢を見極める、ということです。 >その間に将来やりたいことを見つけられたか否かは、その後の人生において非常に大きな差をもたらします。 >大学では自分でやるべきことを選択する >もちろんそれは、誰かが考える正解や将来のあるべき姿ではなく、自分自身で考え抜いた「やりたいこと」であるべきなのはいうまでもありません。 >ご存じの通り、高校までとは異なり大学などにおいては、自分でやるべきことを選択する、という違いがあります。 >もちろんそれはどんな科目を選択するか、というカリキュラム的なこともそうですし、授業にどの程度参加するか、そもそも授業に出席するか、どんな論文を書くか、など多岐にわたります。 >そして、どのように時間を活用するか、についても個々人に多くの裁量があります。 >高校までは、なんだかんだいっても1日のうちになにをするかは、たいてい学校側から提供され、生徒側はそれに従う、というフォロワースタイルなわけで、何をするか、またはしないかを自分で選択できる機会は極めて限られています。 >そのようなケースでは、何をするかを含め、やることや正解(と少なくとも思われるもの)を誰かが教えてくれます。 >反対に高校卒業以降は、自分なりの正解を自分で考え、定義する必要が出てきます。 >そう考えると、大学に入ってから、または高校やその前の義務教育課程を終えて、時間の使い方や生き方を初めて決めた、というヒトが大半ということになります。 >いずれにせよ、大学生活をどの程度厳しいものにするか、または反対に簡単なものにするかは、あくまでも個人次第、ということになります。 >言い換えると、初めて自分の人生を歩みだす第一歩がそこから始まる、ということです。 >であるがゆえに、「やるべきことが見えない」という状況に陥るヒトもいます。 >やるべきことが見えないという状況において、多くの場合、ヒトの行動は2つにわかれます。 >「何もしない」か「とにかく道を探す」か >1つは「何もしない」。 >もう1つは「とにかく道を探すべく行動する」、です。 >現時点におけるYJさんは前者です。 >何もしない、ということは明日も明後日も状況は変わらない、ということになります。 >自分の生き方などを自分で考え、行動しなければいけない状況において、「何もしない」という選択をした場合、「結局何も変わらない」という結果も自分自身で受け入れる必要があります。 >現在の世の中において、私たちを取り巻くさまざまな環境や状況はものすごいスピードで変化していますから、「何もしない」は現状維持ではなく、「後退」なのです。 >結局のところ、大学生活において将来やりたいことを見つけられたか否かは、その後の人生に非常に大きな差をもたらします。 >「何となく生きる」では生きられない世の中なのです。 >かつて日本が経済成長を前提とし、そして実際に成長していた時代は、何となく周りと一緒のことをやっていれば、それなりの人生が待っていましたが、もはやそのような前提が成り立たなくなって早数十年です。 >どんな人生を歩むにせよ、そういった不確実な世界において大切なことは、自分を理解し、自分にあった正解を、それがどんな形であれ追求できている、という状態を創り上げることです。
そうですね。各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy.
>それが幸せにつながりますし、生きる糧や生活のメリハリにもなったりします。 >ですから、現時点においてYJさんがやるべきことは、できるだけ多くの経験をして、自分を理解し、自分なりの人生における正解を見つけようとすることです。 >さまざまな分野の勉強をする、いろんなバイトをしてみる、セミナーやインターンに積極的に参加してみる、ボランティアや地域活動に参加してみるなど、自分の視野と知見を最大限ストレッチできるような環境に日々自分自身をおいてみることです。 >そういったリアルな体験を通じてのみ、将来につながる土壌形成ができるというものです。 >そしてこれらの活動を通じて、自分が将来やりたいことや進みたい分野をできる限り絞り込み、そもそも論としてどういった生き方をしたいのか、を考えることが大切です。 >大学生生活においては、自由であることが楽しみなどのプラスに働く場面が多いかと思いますが、社会人になると「自由であるがゆえの責任」が多く問われますから、苦しみなどのマイナス面が際立ってきます。 >どんな生き方をするかは自己責任 >つまりは生き方次第で、自由であることが、自分と自分の人生にとってプラスにもマイナスにもなりうる、ということです。 >まさにそこは自己責任です。 >いろいろと経験し、学び、自分という今後を生きるうえでの最大の資本をよく知り、最大限活用する。 >言い換えると、自分が持てうる最大限の可能性を引き出すための自分探しを、積極的、そして前向きな行動を通じて真面目にやる、ということです。 >それこそがYJさんが今やるべきことだと思います。 >そしてそういった行動のみが、将来を決定づけるのです。 >社会人になってから「何をしよう」「どんな人生を送ろう」と悩んでいるようでは遅いのです。 >厳しい言い方ですが、たとえば社会人になってから数年して「自分探し」と称して、海外に行っても何も変わらないケースもあります。 >そういった自問自答は、時間がある程度ある学生の間に終わらせ、卒業と同時、むしろそれ以前から自分が目指す正解に向かって邁進したほうがよいでしょう。 >誰も正解を教えてくれないし、むしろ正解を知らない。
人人により考えは違う。矛盾を含んでいない全ての文章は正しい考えを示しています。正解は山ほどある。
>だからこそ自分自身で正解を探し、定義し、前に進む必要があるのです。
そうですね。
>人生は行動しただけ、経験しただけ、悩んだだけどんどん深まります。 >自分なりの信念を持って生きることのみが、不確実なこの世の中をサバイブする唯一の手段です。 >そのような考え方でYJさんが今ある自由をよい方向に転換させ、将来を生きるうえでの土壌作りに邁進されるであろうことを応援しております。
わが国は資源小国である。天然資源は不足しているが、人口は一億以上ある。決して小国ではない。この人口の頭脳を活用すれば、わが国は衰退途上国から脱することができる。 我が国には人手不足はあるが、頭脳不足の話はない。日本人は思考を停止しているが、それが当たり前のことになっていて頭脳不足とは考えられていない。 わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。バラバラな単語ばかりの歌詞には意味がない。だから議論がない。ただ、気分・雰囲気を伝えることにより満足している。 日本語は写生画の言葉である。現実 (事実) は見ればわかる。Seeing is believing. 現実の正解は一つしかない。問答無用である。だから、日本語はご唱和の内容になる。 非現実 (考え) の内容は見ることができない。だが文になる。だからその内容は理解できる。文にならないものは考えではない。 矛盾を含まない文は、全て正しい考えを表している。考えは、一人一人違っているから、正解は無数にある。考えの優劣を競い合う議論も可能になる。
体系のない日本人の発想は哲学には成らずして、空想・妄想になる。これを白昼夢というのかな。大学での哲学は成績が上がらないが、お陰様でわが国は、漫画アニメの大国になりました。 体系的な考えは哲学になる。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy. 日本人には自己の考え (非現実) がない。だから、わが国のインテリは受け売り専門の人になる。思考を停止している人は、つかみどころのない人間になる。 つかみどころのない人間の批判は愚痴・わがままとなり、議論は単なる言い争いに終始する。’和を以て貴しとなす’ の教えと事なかれ主義の圧力により人類の進歩は期待できない。
大学などの高等教育機関で論文作りに励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。 私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから彼らは退屈男・退屈女となって大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。 政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。 我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。 ‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)
我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。
『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)
我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。
国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語の仮名漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。音読が言語の習得には欠かせない。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。ローマ字表記を仮名漢字表記と対等な地位にしてもらいたい。日本語をローマ字表記と仮名漢字表記の二刀流表記の国にすると良い。 '為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり' 上杉鷹山 (うえすぎ ようざん)
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