失敗の本質 |
>JBpress 名著『失敗の本質』はなぜ今も売れ続けるのか? それは日本の組織が変わっていないからだ >木俣正剛によるストーリー >・9時間・ >憲法改正の手続きに関する改正国民投票法が7月24日に可決、成立しました。 >高市政権は改憲論議を加速させていますが、私は本連載で、日本国憲法の改正には、日本人自身で“あの戦争”を総括する「新・東京裁判」が必要だと主張してきました。 >戦前・戦中の反省が今の日本にどう生かされているか。 >その点をはっきりさせないと憲法改正の意味はありません。 >今回は、日本軍の組織的欠陥を指摘した『失敗の本質』を読み解きながら考えてみます。 > 1984年の刊行以来、政治家・経営者に大きな影響を与え、100万部以上のベストセラーとなったこの著書は、日本人に経営や組織について多くの「学び」と「反省」をもたらしました。 >「憲法改正の前に新・東京裁判が必要」という私の持論を考える上で、この本の視点から戦後の日本を振り返るのは大きな意義があると考えます。 > 結論を先に言うと、日本人社会に大きな衝撃を与えたものの、実際に大きな改善効果があったか、と問われると、私は疑問に思います。 > もちろんプラス面はありました。 >比較的「改善が進んだ」ものとして、技術的イノベーションの軽視という欠陥はかなり改善されたと言えるでしょう。 > 同書は、日本軍が零戦の延命など既存兵器の改良に固執し、レーダーのような破壊的イノベーションを組織的に取り込めなかった点を批判しました。 > これに対して、トヨタ自動車やソニーなど戦後に大きく成長した製造業は、技術革新を経営の中核に据えることで世界的な競争力を獲得しました。 >近年もスタートアップ支援策、オープンイノベーション推進、大学発ベンチャーの増加など、「技術を組織の外から取り込む」仕組みは着実に整備されています。 > ただし、ソフトウェア・AI領域では米中に後れを取っており、「ハードウェア寄りの改善に偏る」という構造的なクセは残っています。
そうですね。日本文化には現実 (事実) があって、非現実 (考え・哲学) がない。
>なお残る「空気による意思決定」 > 次に、改善された点として、情報・インテリジェンスに対する姿勢があります。 >本連載の4回目で取り上げた「暗号軽視」「情報よりも精神力」といった文化を克服するため、部分的にではありますが、2013年のNSC(国家安全保障会議)設置、2014年の特定秘密保護法施行など、国家レベルの情報集約体制は整備されました。 > 最近では、政府の情報活動の司令塔となる「国家情報会議・情報局」設置法が2026年5月27日に成立しました。 >今後も制度的な整備はさらに進むでしょう。 >民間でもデータドリブン経営、BI(ビジネスインテリジェンス)ツールが普及しています。 > とはいえ、集めた情報を意思決定に直結させる文化がどこまで根付いたかは、組織によって大きな差があります。 > このように、課題はあっても見直された分野がある一方、ほとんど改善されていないこともあります。 > その一番大きな点は、空気による意思決定です。 > その場の発言者の勢いや意気込みに押され、合理的な反対意見を言いにくい文化はいまだに残っており、個別の計画実行の前にグランドデザインを構築するという思考は、まだまだ不足しています。
イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っています。 、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリアーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。、、、、、日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)
> たとえば、ミッドウェー作戦の目的が「敵艦隊撃滅」なのか「島の占領」なのか最後まで曖昧だったように、目的の二重性・曖昧さを許容する文化は現在も根強いと言わざるを得ません。
そうですね。我が国は高文脈文化 (high contexed culture) の国ですからね。
> 不正会計に手を染めた東芝やニデック、顧客を無視した数々の問題が発覚したビッグモーターなど、企業の不祥事を見ると、目的や責任の所在が不明確なまま組織が動くパターンが繰り返されてきたと考えざるを得ません。
辺野古沖の転覆事故のようなものですね。杜撰ですね。
> 政策決定でも、新型コロナ感染症への初期対応やマイナンバー制度の迷走などには、同様の構造が指摘されました。 >なぜFAX・ハンコ文化がこんなにも続いているのか > また、属人的なネットワークを偏重しがちな点もまだまだ残っています。 > 旧日本軍では、公式の指揮系統よりも、陸軍大学校での卒業年次や派閥などに基づく人的コネクションが意思決定に大きく影響したばかりか、仮に作戦が失敗してもうやむやにされることすらありました。
縦社会の弊害ですね。日本人は知的な努力に興味がない。
> 現在の日本企業や官僚組織でも、公式プロセスより根回し・人間関係が優先される場面は日常的にあります。 >それ以上に永田町文化こそ、旧日本軍そのままといっていいでしょう。 >政治的な意思決定が属人主義に支配されているのです。
それは縦社会の弊害ですね。
> 企業の不祥事が起きた際、第三者委員会の報告書が出ても、経営トップの責任追及が形式的に終わるケースが後を絶ちません。 >重大な失敗が起きても、個人の責任が明確化されにくい風潮は戦時中のようです。
日本人には意思がない。意思のない人間には責任がない。無責任は戦前も戦後も変わらない。
> 変わっていない点をもうひとつ挙げるならば、過去の成功体験への過剰適応があります。 > 経営学的には「シングルループ学習」などと言われますが、日本軍は白兵突撃や艦隊決戦で勝利した日露戦争の成功パターンに固執し、環境変化に合わせて前提そのものを問い直す「ダブルループ学習」ができなかったのです。
そうですね。柳の下にいつも泥鰌はいない。
>「かつてうまくいったやり方」を変えられない体質は、日本の大企業・行政に今も色濃く残っています。 >典型例として、FAX・ハンコ文化の長期残存、年功序列人事の温存、新卒一括採用への依存などが挙げられます。
そうですね。 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。 私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)
> DXが叫ばれても「既存業務をデジタルに置き換えるだけ」になりがちで、ビジネスモデルの前提自体を疑う変革には至りにくい傾向があります。 >「仕組み」は変えたが「文化」は変わらず > 結論としていえば、技術的イノベーションでは、ハード面は大幅改善しつつも、ソフト面に課題が残り、かつての情報・インテリジェンスの軽視は、制度こそ整備されたものの、活用文化はまだら模様です。 >空気による意思決定は、基本的に変わっていません。
日本人には意思がない。意思決定 (理性判断) が避けられない場合は恣意決定 (盲目の判断) をする。
> 責任追及の曖昧さも同様で、不祥事のたびに同じ指摘が繰り返されます。 >自民党の「政治とカネ」の問題などその典型といえるでしょう。 > 要するに、「目に見える仕組み(技術・制度)」は改善できましたが、「目に見えない文化(空気・責任・学習様式)」はそれほど変わっていないのです。
そうですね。
>『失敗の本質』が40年以上読まれ続けている。 >そのこと自体が、「改善されていないことの証拠」になっている——これが、この名著の最も痛烈な皮肉でもあります。
現象論だけでは解決しませんね。原因論が必要ですね。
我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になり、指導力を発揮することもできます。自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ので、自己の見解を明らかにすれば我々は国際社会において相手の理解も得られます。未来社会の建設に協力することも可能になり、我々日本人は、人類の進歩により一層の貢献が可能になるでしょう。
(略)
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