河西陽平氏 |
>プレジデントオンライン >だからソ連は参戦を決めた …日本の情報は筒抜け、直接交渉でも失敗を重ねた大戦末期の政府の “救えない” 面々 >河西陽平によるストーリー >・25分・ >太平洋戦争で日本の敗戦を決定的なものにしたのは1945年8月、ソヴィエト連邦の参戦、侵攻だった。 >歴史研究者の河西陽平さんは「当時の外務省はなんとしてでもロシアの参戦を阻止しようと考えたが、日ソ会談でも交渉に失敗してしまった」という――。 >※本稿は、河西陽平『日ソ中立条約』(角川新書)の一部を再編集したものです。 >米英ソ三国の首脳によるヤルタ会談が開かれ、同盟国ドイツが降伏し、日本の敗色がいよいよ濃厚となった1945年、ソ連の対日参戦は参謀本部、関東軍の情報部のほか、モスクワの日本大使館員や駐在武官達のなかでも、その可能性はあると考えられていたが、その時期については議論が分かれており、一部には参戦はあり得ないとする声もあった。 >しかしながら、市井の日本人達のなかに、日ソ開戦は避けられないと感じていた人々も存在していたのだ。 >もっとも、新聞やラジオといった報道機関が声高に主張する「日ソ友好」を白々しく感じる一般の日本人が大部分であったかといえば、けしてそうではなかったようである。 >5月20日にソ連へ発信された電報には、協力者「イグチ」の提供した情報として、日本政府関係者はソ連の参戦はないと確信しているほか、国民の間にはソ連が日本の対米戦を密かに援助しており、日本が首尾よく戦争から抜け出すことを手助けしてくれるという噂が広がっている、と伝えている。 >要するに、一般の人々のソ連に対する態度は、遅かれ早かれ戦争する相手になると深刻に考えているものと、戦争終結のために利用のできる相手と甘く考えているものとに二分されていたわけであった。 >敗戦間際の日本はソ連にすがった >それでは、対ソ交渉の矢面に立たされた外務省関係者の様子はどのようなものだったのか。 >駐ソ大使であった佐藤尚武は戦後、ソ連との中立関係の維持に加えて、日本に有利な形で戦争を終結させるために、対米英和平にソ連の協力を得たいとする東京からの要請を痛烈に非難している。 >しかし、モロトフ(編集部註:スターリンの右腕である外交の指導者)から中立条約の不延長を通告された当時、ソ連が直ちに日本に戦争を行うとは考えていなかったようだ。 >条約の有効期間は5年であるから、彼は1946年4月25日の失効までに対ソ関係を改善できるかもしれないと判断したのだろう。 >一方、東京の外務本省は、事態をそこまで楽観視していなかった。 >NKGBの東京駐在員は5月23日のモスクワ宛て電報のなかで、日本政府がソ連の仲介によって米国と講和を結ぼうと試みている様子を詳しく伝えている。 >情報提供者は「イシバラ」の暗号名をもつ人物だ。 >彼は、この年の1月19日にNKGB東京駐在員と会談を行った際、知り合いの陸軍中将から得た話として、1944年5月以降満洲の関東軍が段階的にフィリピンや千島列島に移送されていること、フィリピンの陥落後、ソ連が満洲に侵攻する危険性が高まっていることを報告している。 >そして「イシバラ」は、日本陸軍だけでなく外務省にもパイプをもつエージェントであったことが分かる。 >「領土一部割譲もやむなし」と覚悟 >その「イシバラ」によると外務省関係者は、ソ連に和平交渉の仲介を行ってもらうためには、日本はソ連に南樺太、千島列島を譲渡しなければならないと考えていたという。 >また関係者のなかには、ソ連に北海道を譲渡することについて話しているものもいるほか、朝鮮と満洲の独立をおそらく認めなくてはならなくなる、と判断しているものもいたという。 >北海道については、1945年8月16日にスターリンがトルーマンに宛てた書簡のなかで、釧路と留萌を結んだ線の北方をソ連に割譲することを要求し、これを拒否されたという有名な一件がある。 >だが、当時の外務省の内部には、米国との和平交渉の仲介をソ連にしてもらうためには、日本本土の領土一部割譲もやむなしと考えていたものもいたのだ。 >すなわち、このことは、ソ連に仲介を依頼することは現実的に厳しく、日本側としてもかなりの譲歩をしなければならない、という認識が外務省内に存在していたことを示している。 >とはいえ、日本側が大胆な譲歩をすることによって、ソ連側の態度を宥和(ゆうわ)的なものにし、対米交渉において日本に協力的にさせられるのではないかという期待があったことも事実である。 >鈴木内閣で外相に就任していた東郷茂徳もその一人であった。 >交渉役は元駐ソ大使の広田弘毅 >その東郷外相がイニシアチヴをとり、最高戦争指導会議の承認を受けて始まったのが、ソ連を仲介として対米英戦争を終結させるための交渉であった。 >ここで、日本側の交渉責任者として選ばれたのが広田弘毅だ。 >駐ソ連大使の経験があることが抜擢の理由の一つとされるが、果たして広田に対ソ交渉を委ねるという選択肢は妥当なものだったのか、疑問が残る。 >大使としてモスクワに在った頃の広田の対ソ認識を想起されたい。 >満洲事変に先立つ1931年7月1日、現地の大使館内で広田、笠原幸雄陸軍駐在武官と原田敬一陸軍少将の間で極秘の会談が実施されている。 >このとき広田は原田と同等か、それ以上にソ連に対して強硬な態度を示し、日本はいつでも対ソ戦争を開始できるように準備すべきであるとまで述べた。 >広田の発言はソ連側に筒抜けだった
日本には秘密というものがないのですかね。
>重要なことは、広田や原田の発言内容がOGPU(合同国家政治保安部)特別部を通じてスターリンに報告されていたことである。 >しかも、スターリンは広田の発言に下線を引いて強い警戒感を露わにしていたのであった。 >おそらくこの報告書に目を通したときから、スターリンは広田をソ連に友好的でない危険な人物と認識していたであろう。 >このことを鑑みると、1945年の対ソ交渉の担当者として広田に白羽の矢を立てた当時の日本の選択は、致命的に誤ったものではなかったか。 >もっとも、広田や原田達の発言がソ連側に筒抜けになっていた事実は近年になって分かったことであり、東郷外相を含め、最高戦争指導会議の構成員は知る由もなかったであろうが――。 >広田は6月3日、箱根の強羅ホテルにマリク大使を訪ねた。 >米軍による連日の空襲は日ごとに激しさを増し、駐日ソ連大使館員も東京から一時的に避難しなければならなかったのである。 >マリク大使にはっきり物を言えず… >それはともかく、3日と4日に行われた両者の会談は不首尾に終わった。 >というのも、広田はソ連の対日友好的態度を引き出そうとするばかりで、日本が望むソ連の対日参戦の防止、好意的中立の維持、そしてソ連を仲介とした対米英和平という目的を明確にしなかったためである。 >結局、両日にわたって広田は「日ソ関係の増進を切望する」などと、曖昧な態度に終始するのであった。 >マリクをはじめとして、ソ連側は日本の内情、ソ連への要望は諜報活動を通じて十分に把握していたが、既にヤルタにおける米英両国指導者との秘密協定で対日参戦を決定していたことから、マリクも広田の話を真剣に受け取ろうとはしなかった。 >両者の会談は6月24日、29日に再開され、舞台は東京のソ連大使館に移された。 >しかし、24日の広田の発言は箱根の会談でなされたものと同様、論点を明確にしないもので、広田とマリクは腹の探り合いに終わった。 >ソ連の参戦は阻止できなかった >これでは埒(らち)が明かなかったため、29日の会談では広田からマリクに三つの提案がなされた。 >すなわち、①満洲国を中立化し、日本軍を満洲国から撤退させること、②ソ連が石油を供給してくれることと引き換えに、日本のソ連領海での漁業権を放棄すること、③ソ連が関心をもつあらゆる問題の解決を検討することの三点である。 >要するに、これらの提案と引き換えに、ソ連の対日参戦防止を含む一連の要求をソ連に吞ませることが日本の目的であった。 >しかしながら、これらの提案はヤルタ会談で決められた、対日参戦と引き換えに得られる権益と比べると遥かに小さいものであり、ソ連側にとっては問題にならなかった。 >日本側の提案は検討に値しないということで、ここに広田・マリク会談は頓挫(とんざ)したのである。
日本の外交は効果がないようですね。
>---------- 河西 陽平(かわにし・ようへい) 歴史研究者 新潟県生まれ。 >公益財団法人中曽根康弘世界平和研究所研究員。 >2022年、慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程修了。 >博士(法学)。 >外務省国際情報統括官組織専門分析員などを経て、現職。 >23年に刊行した『スターリンの極東戦略1941─1950 インテリジェンスと安全保障認識』(慶應義塾大学出版会)で、第36回アジア・太平洋賞特別賞、2024年度国際安全保障学会出版奨励賞、第10回猪木正道賞奨励賞(日本防衛学会)の3賞を受賞した。>専門分野はソ連・ロシアの安全保障、インテリジェンス研究。 > ----------
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