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2008年09月16日(火) 



暗記と受け売りの勉強は空しい。
どんなに数多くの方法を挙げることができても、それを実行する意思がなければ現実の結果は得られない。
意思のあるところに現実対応の方法がある。(Where there’s a will, there’s a way.)
意思は未来構文の内容であり、日本語には未来構文がない。だから、日本人は方法を実行に移す段階で頓挫する。
意思の内容を明らかにすることのできない人物に民の信頼は集まらない。
政府は問題の先送りと積み残しを繰り返して、問題は山積する。
金余り現象はあっても、その金を景気回復の起爆剤として利用することは難しい。
無為無策の状態に囲まれて、民は閉塞感にさいなまれている。


Professor Terashima is an accomplished scientist but also an acutely observant philosopher and sociologist whose critical ideas are deeply penetrating. What he writes will give his readers much cause for reflection. His contribution is that he articulates through carefully structured analysis what the Japanese have for a while but only vaguely suspected about themselves.

沖縄県立芸術大学教授 A. P. Jenkins


   

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/index.htm
http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/


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閲覧数1,885 カテゴリ日記 コメント4 投稿日時2008/09/16 09:46
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コメント(4)
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  • 2008/09/18 22:02
    照井雅翔さま

    お返事ありがとうございます。

    私には、英国のパブリックスクール教育の体験がありませんので、「英国では」という資格はまったく有りませんが、私の育った教育環境では、「外国では、、、、」と話す人のことを「出羽守」(でわのかみ) と呼んで敬遠していました。必ずしも猿真似・受け売りの人とは限りませんが、議論が出来ないとなると、結局、合理的な決着をつけることは出来ませんでしたね。

    アングロ・サクソンの強みは、自主・独立 (independent) の考え方にありますね。今の地球は、アングロ・サクソンの世界ですからね。

    日本語では、現実 (事実) と非現実 (考え) の区別が難しいので、合理化 (rationalization) することも、また難しいでしょうね。
    アングロ・サクソンが現実と非現実を区別して考えることができるのは、英語の語法・文法のおかげです。

    私の友人のDerekさんも、支持者のTonyさんも、先生のBenさんも共に英国人の男性ですが、皆さん慇懃な方ばかりです。いつも「何がそんなに面白いのか」といったような顔つきをしております。自己慶賀に酔いしれるのは、日本人の方に多く見受けられるのはどうしてなのでしょうか。

    「パトリオット」(patriot) の名前はミサイルにもつけられて、親しみがありますね。どうして、日本語の「愛国者」には人気がないのでしょうかね。

    貴方の発言の真意は、大筋で理解できたつもりです。
    どうも、ありがとうございました。

    次項有
  • 2008/09/17 07:57
    さん
    お名前:照井 雅翔

    お返事ありがとうございます。
    私の発言が受け売りの奨励に聞こえ、お耳汚しをしてしまったならば大変申し訳なく思います。ただ、真意は別のところにあります。というのは、私は日本人であり、日本で教育を受けてきましたが、我が高校が英国のパブリックスクール教育を模した精神教育重視・全人教育の学校であり、我が大学が旧制高校以来の教養主義・人文主義を継承している大学でしたので、私が「英国では」という場合、感覚的・倫理的にもそのような考えが自分の中では当たり前になっているのです。
    真の国際人であるためには何よりも、「自律した強い個人」であるひつようがありますが、その強い個人と言う文化の原点は「英米(特に英国)」にあるのです。

    もし、私がいきなり「個人の自律が不可欠だ」などと言っても多くの日本人にはなかなか理解しがたいことでしょう。したがって、まず「英国ではこうなっている」と述べた上で、それがなぜ妥当なのかを合理的に説明する、という作業が不可欠なのです。
    私を「純粋な日本人」と見るならば、受け売り大好き人間のように聞こえましょうが、私は教育と自己修養によって英国人的な精神(我が高校の理念は紳士・淑女教育)を培ってきましたので、英国民が特に自国のことを誇らしく語るのと同様な感覚なのです。ただ、我が高校はそれらの教育と同様に、茶道・武道による「道」という日本の伝統的精神の修養も目指しているので、「愛国心がないのか」と問われれば、「もちろんあります」と誇りを持って答えられます。

    以上が私の発言の真意であります。ご理解いただければまことに嬉しく存じます。
    次項有
  • 2008/09/16 23:10
    照井雅翔さま

    お便りをありがとうございます。
    私は、自己のささやかな人生経験により、英米人と学問に関して語ることは有意義だと考えております。
    それを可能とするために、日米のメンタリティの機序の解明が必要であるということです。
    英米人の語ったことを種にして、日本語で議論するなど身の入らぬ作業ですね。
    私は、受け売りに熱心になれない性質を持っているのかも知れません。
    とにかく、日本人には英米流の高等教育が必要と考えております。
    これは、受け売りの奨励ではありません。自己啓発の奨励であります。

    S.T.
    次項有
  • 2008/09/16 17:27
    さん
    お名前:照井 雅翔

    いつも寺嶋先生の考察を共感しながら読ませていただいております。日本の学問は未来を語らない、日本語には階級構造がある、等というのは、以前からその通りだとは思っていましたが、私が考えている理由とは異なっているようです。
    先生がおっしゃるとおり日本語の構造の問題もいろいろあるとは思うのですが、私としてはそれ以上に学問のアメリカナイズによるところが多いと考えています(正直私はあまりにアメリカナイズされすぎた日本人があまり好きではありません。彼らにとって「教養主義」は無価値だからです)。

    1970年代頃からアメリカの行動論主義が日本に流入したことによって、「脱価値」「脱哲学」による「純科学的」な考察こそが「学問」の名に値すると考えられるようになりました。つまり、可視的な現象を因果論的に解明することこそが学問の課題となるのです。
    私の指導教授は政治学者なのですが、その方に限らず、その世代(50代前半~40代後半で特に東京大学出身)の学者は、学問において、如何にそれまで(結論まで)の推論・論証が妥当でも、結論に「あるべき」思考が入ることを嫌い、完全な「である」思考を求めます。私はそのような先生方に、学問は純粋な科学であるべきだとよく言われますが、歴史や哲学を重視する英・仏の学派を支持している私としては、前提とする方法論の違いから、純科学を要求する先生方には必ず低い評価を与えられます。もちろんそれは私の能力不足によるとも考えられますが、「哲学」「歴史学」「基礎法学」等の講義ではよく先生方に高評価をいただくことから、おそらく学派が異なることによる認識・評価の違いでしょう。ただ、日本の大学では学問の「学派」については殆ど語られず、講義はある意味で「完成・自己完結」しているので、先生の議論をしっかりと書かない限り「低評価」と言う結果が出るだけで終わってしまいます。例えば「意義」という語の解釈が異なったために一方的に指導されたこともありました。

    英国に滞在された経験がおありならばご存知かもしれませんが、あちらでは17~18際の学生はシックスフォームにおいて思考力の鍛錬を含め相当高度な内容を学習します(バーナード・クリック著、添谷育志ほか訳『現代政治学入門』参照)。今後日本は高等学校及び大学を、「高校」「大学校」から、真の高等教育機関にしなければ日本の将来はないと思います(「ヨーロッパ大学大憲章」参照)。
    次項有
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