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2009年01月21日(水) 



今の地球は英米の世の中であります。だから、我が国には開国が必要です。
我が国の第一回目の開国は、明治維新の時でありました。これにより、我が国民は外国との往来が可能になりました。第二の開国は、敗戦後でありました。我が国民は、社会の枠組みである従来の序列制度に疑念を抱くようになりました。だが、我が国には、さらに第三の開国が必要であります。今回の開国は、アングロ・サクソンの考え方を理解するとともに、日本人の考え方のつたなさを自覚することであります。さすれば我が国は、国際社会において蚊帳の外に立つこともなく、世界を指導する国にもなれます。

(1) 考えることは、文章を作ることである。文章を作らなければ、考えはまとめられません。
考えがまとまらないときにはどうしたらよいのかわからず、閉塞感におそわれます。それで、我が国全体が閉塞感に覆われています。
閉塞感は気分・雰囲気の問題でありますが、その原因は気分・雰囲気を扱っていても解決しません。
「理屈っぽい」などといって、原因究明を投げ出しても、問題解決には至りません。

文章を作るときに使用する言語の特徴 (文法・語法) は、私たちの考える内容に大きな影響を与えています。
夢と幻の内容は対応する構文がないのでいくら考えても辻褄の合うものとはならないです。
日本人は過去のことと、未来のことは真面目には考えられません。時制がないので、地獄も極楽もまともには考えられていない。
日本語で考える刹那は永遠のごとく見えていますので、我らは次元の異なる世界に飛び移るとはとても考えることができなのでしょう。
過去の事実を過去の出来事として語ることはできない。「出た出た月が」といったように、過去の事実をあたかも目の前の出来事のように語らなくてはならない。
歴史的に見れば侵略戦争は世界中で行われていたのですが、そうした過去の事実を現在とは次元の違う過去のものと考えることは、日本人にとって非常に難しいようです。
今も昔も、日本人はナウな感じのする今様の人間です。このような精神状態では、温故知新もままならないです。
日本人は、フィクション (虚構) とノンフィクション (記録) の区別にも親しみがないようです。
事実と虚構の区別をつけないで文章を書くと、歴史小説や週刊誌の記事のような内容になります。
もしも週刊誌の記事に他人の名誉を汚す内容が書かれていたとしたら、そのようなことは歴史小説にあっても当然行われていることであります。

日本語を話す日本人にとって天皇制の廃止は容易ではないでしょうね。
それは、日本人が序列社会に住む序列人間だからです。
日本人の力は、外国では日本人特有の真価を発揮しづらいですね。
移民した日本人は、天皇制を廃止した日本人と考えることもできます。

日本語には人称 (person) がなく、日本人には自己 (第一人称) がありません。
日本人の自己 (self) は「わたくし」、「わたし」、「わし」などとあくまでも情況次第 (situational) で変化します。
全ての日本人は、天皇陛下の前では「わし」ではなくて「わたくし」である。天皇は、我が国においての人間序列の最高位です。
日本語の文章がまとまらなければ、日本人の考えはまとまらない。
自己に関する文章が出来なければ、自己の考えは成り立たない。つかみ所のない人間となる。

日本語には、階称 (言葉遣い) がある。階称を使えば自己の呼び名も相対的に定まる。
だが、階称を使うためには、序列づくりが必要となる。自分自身が序列人間であることは、必要なことである。
日本人には理性がないので、議論が出来ない。それで序列順位により物事を決する。
理不尽であると指摘を受けたときには、序列の存在を使って正しい判断をしたとの説明になったものとする。
それで、何事にも天の声が大切である。わが国の敗戦も天の声で決まった。
だから、自己の恣意を相手に容認させるために、日本人には序列を定めるための争い (競争) が必要になる。試験地獄のようなものである。

礼儀正しい日本人も、序列なきところでは礼儀なし(無礼講)である。
そして、肝心の文章の内容自体の論理構成は時流に流され疎かになる。歌は世につれ、世は歌につれでしょうか。
自己の名乗りには選択の自由は少なく、環境の序列に正確に合わせなくてはならない固苦しい社会なのです。自分が大きくなったり、小さくなったりしなければならない。
日本人は、まず最初に、周囲の空気を読む必要があります。そして、自分自身が雰囲気に呑まれる。これは気分・雰囲気の問題であって、物事の本質ではない。
いろいろな気配りするので、日本人の考えは難しくなる。だから、日本語を使うのは難しい。

考え (内省的な哲学) の内容が無いので、いきおい外面に神経が集中します。感性ばかりが強調されて、理性がありません。日本人が見栄と外聞にこだわるのは、こうした事情があるからです。
序列 (hierarchy) の中に自己の位置を見出すことにより自分の名乗り方が定まり、日本人の考え (文章) は内容が確定します。文章が確定すると、序列による協力が可能になります。どこの馬の骨かわからない人間になることを避けるために、日本人は自ら序列を求め、上下の間に自分の身をさしはさむ努力をします。修身の授業では「君に忠、親に孝」を教えた。
それで、天皇制という一種の家元制度の中での臣民・皇民といった序列人間になることに強い愛着を持ち、お互いに見えない序列の鎖で繋がれてこの国の中で安心しているようです。その序列の頂点には、絶えず天皇が見えている。

日本人はリーズナブルな現実対応ができない。
現実構文のみを有する日本語では現実対応の方策が語れない。
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘している。

「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いている。

官僚や会社人間は序列を作って相互に利益を守りあいます。だが、消費者としては序列作りが出来ないので自己利益を守ることが難しいのでしょう。日本人は、世界観 (非現実) というものを持っていないので、理想の国を作る考えもなく、その国を守る考えもないようです。
日本人は、個人的に海外に雄飛することにも消極的であります。外国に出るときは、軍隊とか、企業戦士とかいった、序列社会の一員として外国に派遣され、序列に基づいた協力に力を発揮します。異民族政府の下では、日本人の序列社会作りは成功しません。日系移民が能力を発揮できない現象は、本国の人たちからは序列社会を離れた不心得者のように考えられているのかもしれません。一旗あげて母国に帰国することも難しい。
序列を離れた海外の日本人の子孫はその国で実権を握ることもなく、単純労働者として母国に収容されているようです。しかし、序列作りが出来なければ、何処の国に行っても大きな力を発揮することはできないでしょう。序列社会における個人の向上心と序列による協力は、セットになって大きな効果を上げているのかもしれません。




Professor Terashima is an accomplished scientist but also an acutely observant philosopher and sociologist whose critical ideas are deeply penetrating. What he writes will give his readers much cause for reflection. His contribution is that he articulates through carefully structured analysis what the Japanese have for a while but only vaguely suspected about themselves.

沖縄県立芸術大学教授 A. P. Jenkins



http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
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閲覧数1,504 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2009/01/21 13:56
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