飼い主にとって、何が都合よく何が都合が悪いかを、アニマルに教え込む。これが、調教である。 意思のない人は自主性が無い。自主性のない人は他人に教えを乞う。 恣意 (私意・わがまま・身勝手) の自由は、あっては困る。自由のはき違えである。これには滅私奉公で対処する。不自由を、常と思えば不足なし。 特亜三国の人々は他人に教えを乞う。自分自身で考えない。他人任せである。 意思があれば、加害者意識 (罪の意識)も生まれる。意思が無ければ、罪もない。無心である。無神論者と呼ばれるのかもしれない。 意思は未来時制の文章内容である。特亜三国の言語には、時制が無い。特亜三国の人には意思が無い。優柔不断・意志薄弱に見える。意思になるべき部分は、いつまでも腹の中でどろどろした状態にとどまる。公衆の面前で腹を割って見せるわけにはゆかない。雄弁術は育たない。 罪を意識すれば反省もする。行動を改めもする。罪の意識のない人では、ああ言えばこう言うの言い訳になる。加害者意識はなくても、被害者意識はある。アニマル同様である。言い合いでは決着がつかない。 罪を基準にして判断できなければ、行動の基準を他に求めることになる。 罪を基準にして判断出来る人は、陪審員になれる。人の行為の適不適の決定に参加出来る。誰に教えを乞う必要もない。 意思の 'あるなし' が、判断基準の 'あるなし' になる。判断基準のない人々は、他に基準も求めなければならないので、道徳教育がぜひとも必要になる。 時制がないので、三世界 (過去・現在・未来)にそれぞれの内容を自分では展開させることが出来ない。その分、外から知識を多く仕入れて受け売りをする。ああ言えばこう言う人間になる。頭でっかちである。曲学阿世 (学問上の道理をまげて、世間の人気にこびへつらう)の人間の世の中になる。民度 (文化程度) が低い。 |