2023年02月15日(水) 

 

>381717        脳が成長するのは「入力」より「出力」?!   >廣渕一志 ( 中年 福岡 技術者 )         23/02/01 PM07  

>学習が進むのに大切なのは「入力」か「出力」か?   

> 実は脳科学の点では明らかなようです。   

>東京大学・脳科学者の池谷裕二氏の『パパは脳研究者』を引用させて頂きます。   

>実は「入力」に効果がないことは確かだそうです。   

>繰り返し見返すことが学習に効果的だと思っていましたが・・・。   

>(以下抜粋引用です)   

>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

■脳が成長するのは「入力」より「出力」   

> 読むという「入力」より、自分で書くという「出力」を大事にすることは、脳科学の点からも、読んだり聞いたりする「入力」より、しやべったり書いたりする「出力」のほうが重要だということは、はっきりしています。   

> 例えば学校のテスト。   

>勉強をするときには、教科書や参考書を読むなど、知識を何度も叩き込む、つまり、繰り返し入力することを重視しがちです。   

 

そうですね。その詰め込み量をテストで確認するのですね。   

 

>でも実は、入力訓練にはほぼ効果がありません。   

>むしろ、覚えたことを思い出すとか、模擬テストを解くといった、「出力」こそが重要です。   

>知識は、仮にきちんと脳に叩き込まれていても、必要なときにそれが出てこなかったら、外部から見れば「覚えていない」ことと同じです。   

>本番で思い出せなかったら、意味がありません。   

>だから、「思い出す」という出力訓練こそが大切なのです。

> 勉強において一番重要なことは知識の「出力」。   

>これは脳研究者の間では有名な事実です。   

>ところが、「出力」の訓練は、意外と皆さんしていない。   

 

出力の訓練は論文を書くことですね。卒論も、修士論文も、博士論文もすべて学習が論文による審査の対象ですね。論文の内容は世界中の人が注目しています。          

 

>どちらかと言えば、再読重視。   

> 実際には、再読を繰り返しても、知識はほとんど定着しません。   

>これは直感に反するかもしれません。   

>なぜなら、本は1回読んだときより、2回読んだほうがスラスラと読め、よく理解できたような気がするからです。   

> おもしろい実験があります。   

>本を読んでから1週間後に内容についての「想起テスト」を行うと、1回読んだときと、2回読んだときでは、なんと点数が変わらないのです。   

>3回読んでも同じこと。   

> ただし、2回、3回と読み返すと、読み慣れはするので、確かに読むスピードが上がるのです。   

>そして、スラスラと読めるようになると、本人は「わかった!」ような気になる。   

>成長したような気分になるのです。   

 

それは坊さんの読経のようなものですね。日本人は常に気分・雰囲気を重視していますね。        

 

>でも、実際には点数は変わらない。   

>覚えていないのです。   

> 実は、この「わかった」という心理こそが、学習の妨げとなっています。   

>「わかった」という感情は、爽快で心地よいものかもしれませんが、現実には、学習意欲を減らしてしまう悪しき作用があります。   

>なぜならば、わかった対象については「もう理解しているから、これ以上の勉強は必要ない」と判断してしまうからです。   

>「わかった」は知識欲減退と思考停止の元凶なのです。   

 

そうですね。学習には謙虚さが必要ですね。      

 '私は、私が何も知らないということを知っている'。 (ソクラテス)     [無知の知] 'I know that I know nothing'.  

 

> さらに言えば、「わかった」と本人が感じたとしても、そもそも本当に「理解しているのか」という根本的な問題も残っています。   

>「わかった気分」になっているだけで、実は「全くわかっていない」ことは珍しくありません。   

>学習において「わかった」は、百害あって一利なしです。   

 

そうですね。   

 

>(引用終わり)   

 

わが国は資源小国である。天然資源は不足しているが、人口は一億以上ある。決して小国ではない。この人口の頭脳を活用すれば、わが国は衰退途上国から脱することができる。

我が国には人手不足はあるが、頭脳不足の話はない。日本人は思考を停止しているが、それが当たり前のことになっていて頭脳不足とは考えられていない。

わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。バラバラな単語ばかりの歌詞には意味がない。だから議論がない。ただ、気分・雰囲気を伝えることにより満足している。 

日本語は写生画の言葉である。現実 (事実) は見ればわかる。Seeing is believing. 現実の正解は一つしかない。問答無用である。だから、日本語はご唱和の内容になる。

非現実 (考え) の内容は見ることができない。だが文になる。だからその内容は理解できる。文にならないものは考えではない。

矛盾を含まない文は、全て正しい考えを表している。考えは、一人一人違っているから、正解は無数にある。考えの優劣を競い合う議論も可能になる。

 

 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)

 

体系のない日本人の発想は哲学には成らずして、空想・妄想になる。これを白昼夢というのかな。おかげさまでわが国は、漫画アニメの大国になりました。  

体系的な考えは哲学になる。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy.  

日本人には自己の考え (非現実) がない。だから、わが国のインテリは受け売り専門の人になる。思考を停止している人は、つかみどころのない人間になる。     

つかみどころのない人間の批判は愚痴・わがままとなり、議論は単なる言い争いに終始する。’和を以て貴しとなす’ の教えと事なかれ主義の圧力により人類の進歩は期待できない。   

 

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)

 

大学などの高等教育機関で論文作りに励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。

私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから彼らは退屈男・退屈女となって大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。       

政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。  

我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。   

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)    

 

TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。

孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)。(引用終り)  

 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っています。

、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリアーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。プラトンの対話篇から、例として『クリトン』をあげてみよう。この対話は、明日の死刑執行を前にして、夜明けに、獄中のソクラテスをクリトンがたずねて、脱獄をすすめるところからはじまる。もちろんソクラテスは寝ている。だがどう読んでみても、ソクラテスが起き上がって、威儀を正して、法の遵守を説いて、クリトンに反論したとは思えない。ソクラテスは、おそらく最後まで寝っころがったままで話しているのだ。従って、この場合、純粋に、ソクラテスの言った言葉 (ロゴス) だけが問題なので、彼の態度や語調は全く問題にされないのである。日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)     

 

日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。

日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。

 それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。

 英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)     

 

宮本政於の著書〈お役所の掟〉には、官僚絶対主義のことが出ている。以下は、著者(宮)と厚生省幹部(幹)との会話である。

宮「憲法に三権分立がうたわれているのは、権力が集中すると幣害がおきるから、との認識に基づいているのでしょう。今の日本のように、官僚組織にこれだけ権力が集中すると幣害もでてきますよね」、幹「ただ、日本はこれまで現状の組織でうまく機能してきたのだ。それによく考えてみろ。いまの政治家たちに法律を作ることをまかせられると思うのか。そんなことをしたら日本がつぶれる」、「日本の立法組織にそれほど造詣(ぞうけい)が深くないのですが、私も認めざるをえません」、「そうだろう。『やくざ』とたいしてかわらないのもいるぞ」、「私もテレビ中継を見て、これが日本を代表する国会議員か、と驚いたことがなん度かあります。とくに、アメリカとか英国とは違い、知性という部分から評価しようとすると、程遠い人たちが多いですね。でも中には優秀な人がいるんですがね」、「政治は数だから。いくら優秀なのがひとりふたりいてもしようがない。ある程度の政治家たちしかいないとなれば、役人が日本をしょって立つ以外ないのだ」(引用終り)     

 

 

 

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閲覧数117 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2023/02/15 10:09
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