ここ数日、キンモクセイが香り始めている。家のドアを開けたとき、車から出たとき、そして夜、クリニックから帰るときなどに、あの甘酸っぱい香りを感じる。
「ああ、またこの季節なんだな・・・」と思う。
個人的にはキンモクセイに思い入れはないが、その香りを感じるとある話を思い出す。
それはだいぶ前のこと、僕は医師会の広報委員会の委員をしていたときのことだった。広報委員会は夜8時から1時間ほど行われるのが常であった。その日、健康さがみはらというタブロイド誌に載せる写真を皆で選んだ。候補の写真のうちの1枚が僕が撮影したキンモクセイの花だった。意見が出そろい、委員会が終わろうとしたとき、若いA山先生がつぶやいた。彼はまじめで、細身でいつもジャケットとタイを着ていて、糖尿病が専門であり、よく研究会などで講師を務めたりしている好青年である。
「キンモクセイにはちょっとした想い出があってですね。ある女性と横浜で食事をしたとき、桂花陳酒という酒を飲んだんですよ。ご存じですか桂花陳酒って。キンモクセイの酒なんですよ。ちょっと香りがキツイですが」
「ほほう、そういう酒があるんですか。おもしろい」
と皆が興味を示した。
彼は続けて、
「キンモクセイの時期になって、あの香りを嗅ぐとその人のことが思い出されるんですよ」
と言う。僕はすこし意地悪なことを聞いた。
「ホホウ、なるほどねえ。で、その女性は今の奥さんなの?」
彼は、しまったという顔をして、そしてやや顔を赤らめて
「いや、それは、その、別の人なんですよ。もちろん結婚前の話ですよ、当然ですが」
と弁解する。
可愛いなと思った。好ましい青年である。
そんなことがあって、その後、キンモクセイの香りを感じるたびに、その話を思い出す。実は彼からその話を聞いた後、桂花陳酒を手に入れて飲んだのだが、キンモクセイの香りがプンプン臭うリキュールだった。あまりに香りがキツイので、大部分を飲み残して棚にしまいっぱなしになっている。
キンモクセイの香りは甘い。
せつない思い出があれば、なお強く匂うだろう。