先生こんばんは。
博多の街はずいぶん変わりましたね。
僕がいた頃はまだ、地下鉄が無く博多駅から天神まで歩いて3本立て500円の映画なんかを見に行ったことを思い出しました。
そこで、初めてとんこつラーメンを食べ、これが博多の味だとばかり思ってましたが、大きな間違えだったようですね。
福岡には2年居て、大濠公園には一度遊びに行っただけですが、写真見て懐かしく思いました。
博多での二日目の朝。朝食券を持って和食堂へ行く。 まあ、お定まりの和会席みたいな朝食で、お粥にした。当然出ると思っていた一品がないので給仕係を呼んだ。 「”おきゅうと”は出ないの。もしあるなら出してほしいな、別料金でもいいから」 「そうですか、板場に聞いてまいります」 と言う。 ”おきゅうと”とはエゴノリという海草から作ったもので、博多では朝食には毎日食べたものだ。おろしショウガと醤油をかけて食べる。 しばらくしておきゅうとが運ばれてきた。ところがゴマだれがかかっていてゴマの味ばかりしておきゅうとの味がわからない。板場はわかっとらんなと思った。 ここで高橋治という作家の書いた文を思い出した。彼はできるだけ旅行はしないことにしているそうで、その理由は旅館の食べ物だそうだ。見た目は豪華だが、ありきたりの材料で食材本来の味を殺して出されるので、旅館の食事が出るたびに腹が立ち、ついに旅行をやめたという。もし興味をお持ちの方がおられたら彼が書いた「風の暦」を一読されたい。僕は彼ほどのこだわりを持ってはいないが、その基本姿勢には共感するものがある。 で、飛行機は2時20分発なので少し時間があった。博多の町を見てみたいと思った。ものはためしとある友人に電話してみた。すると、彼は車で僕の行きたいところに連れて行ってくれるという。彼とは中学・高校での仲良しの同級生だった。 僕が通った小学校は西公園にあり、もはや木造ではなく近代的な建物になっていたが、藤棚が残っていたのは嬉しかった。西公園の展望台から海を見てびっくりした。僕の記憶ではその展望台からはすぐに海で砂浜が続いていたのだが、見るも無惨、埋め立てられて工場や高速道路が通っていた。 小学校時代、その小学校は教育大学の付属小学校だったので、教育大学の中にあった。そして行き帰りには学生がピアノの練習をしているがよく聞こえていた。たいていがショパンの小品だったように思う。僕のショパン好きはこのあたりに原点がある。 高校は修猷館という古い学校で西新というところにある。ここはあまり変わってはいなかった。だが、高校から200メートルも歩くと百道(ももち)という砂浜で、海水浴場だったのだが、ここも埋め立てられ住宅街になっていた。 そして、大濠公園にいった。ここはさすがにあまり変わっていなかった。H君と記念写真を撮る。そして、ウエストといううどん屋に入った。旨かったなあ、久しぶりの博多のうどんは!ネギは入れ放題で、ゴボウ天と丸天を入れて食べた。僕が 「いやあ、これを食べにだけでもわざわざ博多に来る価値があるなあ」と言うと 「そうか、そりゃあ良かった。関東のうどんは醤油の味ばっかりするもんなあ」 と同意する。 彼は結局空港まで送ってくれた。 ありがたかったし、とても嬉しかった。 たった二日間の博多帰りだったが、まさに感傷旅行になってしまった。僕は父親を20年以上前になくし、今回母親を亡くし、弟たちは博多でりっぱに独立している。僕にとって博多に帰る理由がなくなってしまったわけで、またいついけるか分からないという思いがあったからだ。 僕にとっての博多の味を書いておこう。 鶴の子、鶏卵そうめん、ばんぎやの博多献上、おきゅうと、正月の雑煮、うどん。 念のために言っておくが、ラーメンは対象外。ラーメンは東京からの出張族が食べるもので、庶民は食べなかった。また、辛子明太もそうだ。辛子明太は戦後に作られたもので、出張族が東京におみやげに持ち帰って評判になったもの。博多では庶民はまったく食べない代物だ。庶民はふつうの明太子をあぶって食べたものだ。 朝食後、部屋に帰ると便意をもよおしてきたのには驚いた。どうして驚いたかと言うと、僕は毎朝決まってお通じがあるのだが、外泊したら一日目にはお通じはなく、二日目から始まるのが常なのである。やはり微妙な環境の違いが腸に影響を与えているのだろう。ところが、今回博多に帰ったときは翌日から快便があった。ふむ、カラダというものは正直なもんだなと納得したものだった。 |