恣意と意思の違い
権力を誰に与えるかは、権力をどの意思につけるかと言うことである。
ところが、日本人には意思がない。だが、恣意・意向がある。
だから、人選びは、どの恣意に権力をつけるかということになる。
恣意 (私意・我儘・身勝手) は何処の国にいっても通用しない。責任者に恣意的な判断をされては困るからである。
無哲学・能天気では、人間のつかみどころがない。まじめな人選ができない。
ぜひ、選ばれた人には滅私奉公をお願いせざるを得ない。そうでなければ、’自由のはき違え’ になる。
だから、権力という危険極まりないものの行きどころがない。権力の所在が明らかにならない。
長を評して「任期中、何もしないのが彼の最大の功績だ」と言う人もいるくらいである。
この国がひっくり返っても、責任者は出なかった。とかく、この世は無責任。
意思がなければ、責任観念もない。罪の意識 (加害者意識) もない。
被害者意識にとらわれた人の歴史認識は一方的な見解となって、人類の歴史を大観することはできない。
あゝ言えば、こう言う。まじめな反省にもならない。未来社会の建設にもつながらない。
責任ある回答にもならず、相手から信頼を得ることもない。不信の関係は膠着状態に入る。
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