なぜこの本を買ったのか覚えていないが、そのタイトルに惹きつけられたことは間違いない。 神子清という当時24歳の陸軍伍長は昭和19年11月11日太平洋戦争末期のレイテ島に送られ、6ヶ月後にはネグロス島で米軍の捕虜になり、生き残った。そして戦後、いかにレイテ戦で死を逃れ生きのびようとしたかを書いた。レイテ戦では85000名の兵が投入され、戦死者は81000名、死亡率はなんと95パーセント以上だった。 神子は(フィリピン)レイテ島、オルモックに上陸し、米軍と正面から戦って連隊は壊滅し、敗走。彼は米兵の死体から装備、レーション(携帯糧食)を奪って生き延びた。そして米軍の装備のすぐれていること、軽量なこと、レーションのぜいたくさに驚き、これでは勝てないと思った。その後も神子は何度か戦闘に加わるが、米軍の圧倒的な軍事力・物量を前にしてレイテでの組織的戦闘は終わったと感じ、自身が傷ついたこともあって、レイテ島を脱出し、最終的にはボルネオに行って、倭寇になろうと考えた。 神子は決して臆病な兵ではなかった。危険には率先して立ち向かい、戦友からは信頼されていた。彼は戦闘で死ぬことを嫌だと思ったことはなかった。死んでも、その死に意味や夢があればいいのであり、彼は何よりも犬死にが嫌であった。意味の無い死に追いやられるのは絶対に嫌だと思った。そのことが彼にレイテ島脱出を決心させたのだった。 神子は傷病兵仲間5-7名と小舟でレイテ島を脱出する。セブ島北部のメデリン島を経由してネグロス島にいたり、ネグロス島北部の山岳地帯を何ヶ月も逃げ回り、ついには東海岸でゲリラにやられ、米軍の捕虜となり、生還した。 逃避行の最大の敵は食糧であり、食べられるものは何でも食べ、人食いの直前までいったらしい。 彼は必死に生きた。あらゆる努力をして生きて、それでも死ぬのなら仕方がない。彼は「メイファーズ(没法子)」という言葉が好きだった。中国語であり、”すべてを尽くしてもうやることはない。天に任せるしかない”といった意味らしい。 驚くべき本であった。死んでいった戦友たちのためにも事実を書き残しておく義務があると神子は考えたのではないだろうか。そして、神子清とその戦友たちが行った生きるためのすさまじい奮闘・努力に、僕は感銘を受けた。一読をすすめたい。 |