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2022年4月25日までに書いたものです。後編の、アルシオーネSVXバージョンL(3300cc、AX-9)とレガシィ・ランカスター6(3000cc、BHE)に、多分続きます。 クレジットカードの「SUBARUカード」(年会費1925円)で支払うと、スバルのディーラでの整備や修理の際に、工賃や部品代が5%引きになるという特典が、長く続いていた。曖昧な私の記憶では、40年以上。(他にも、STIグッズ10%割引などの特典があるが、省略) トヨタ自動車の傘下になったからであろうか、其れらの特典が、来年2023年3月31日を以って終了するという、ダイレクトメールが今年3月25日に三菱UFJニコスから届いた。 尚、特典終了に伴い、今年4月1日から、年会費が1375円に下がるという。 毎年何十万円も修理代が掛かる少量生産車を乗り継いでいたので、SUBARUカードの特典はたった5%ながら助けになっていた。 1台目は、ガンメタリックのツートンカラーの、昭和54年(1979年)式ニューレオーネ4WDターボAT(AB5)である。ニューレオーネ(2代目レオーネ)自体は珍しくなかったが、富士重工のターボ付き乗用車の最初のモデルであり生産台数が少なかった。見かけは平凡な4ドアセダンの羊だが、当時としてはターボで発進加速や追越加速などに優れていたものの、当時のスバルはアンダーステアが強く高速安定性も悪くて操縦性は良くなかった。ターボのせいか、エンジンルームに熱が籠り、トラブルが多かった。尚、エンジン横幅の制約であろうがOHVでレブリミットが5500rpmだったからか水平対向4気筒1800ccターボエンジンの出力はグロス120馬力であった(当時の他社1800ccターボは、グロス135馬力やネット120馬力が普通であった)が、低回転域からターボが効いてトルクが太かった。前後動力配分は、MP-T(マルチプレートトランスファ)という湿式多板クラッチが後輪への伝達系の途中に入っていて、エンジン回転が低い時にはクラッチが滑ることでタイトコーナブレーキング現象を防ぐという、常時四輪駆動を目指したものだったが、交差点などで停車した際に発進の直後に左折する場合などステアリングを大きく切ってアクセルを踏み込むケースではタイトコーナブレーキング現象が出るせいなのかワンタッチで後輪への駆動を切ることが出来た。因みに当時は世間のAT(オートマ)への理解が低く、4WDターボとATの組み合わせを訝られた。ATといえば、他社のオーバードライブギヤが入るところに4WDトランスファがあるので、オーバドライブなしの3速であった。また、エンジンは、無鉛レギュラー仕様(実は昭和41年のスバル1000から無鉛対応)だったが、ガソリンスタンドを変えると調子が変わる誉のようなデリケートなエンジンだったので、業転ガソリン(元売り以外から仕入れたガソリン)を扱ってないといわれていた出光のガソリンスタンドで、其れも清浄剤が添加されていたハイオクガソリンを、入れてた。ハイトコントロール(車高調整)とトルコンのロックアップがない、マイナーチェンジ前のモデルだったが、ハイトコントロールは必要性を痛感した(車高が低くて悪路で腹を擦ることが多かったので)。補強してないノーマルでは、モノコックボディはあまり丈夫ではなく、十メートル越えのジャンプを繰り返したせいかボディ左右の前ドア付け根の近くに力が集中したのか錆孔が開いたので車体が前後に『へ』の字に曲がったのだろうが左右対称なので心配はしなかった。御殿場の東名高速道路で雪がガリガリに凍った道で追突された後、異常振動が出て神奈川スバル自動車(当時は横浜市在住)では直せず何年も我慢したが、良いメカニックが居るという評判を聞いて目黒区の中央スバル自動車碑文谷営業所に持ち込んだところ、すぐに、エンジンを支えるクロスメンバが前後2本とも路側の凍った雪に擦って後ろに曲がっていたと分かり、修理費用は自腹ではあったが、快調になった。良くヤビツ峠や中津川林道などへ走りに行ったものだが、独特の角形四灯の前照灯をバックミラーに認めたカローラレビン(セリカの2TGエンジンを小型のカローラに積んだもの)やランサーGSR(ギャランのサターンエンジンを小型のランサーに積んだもの)などが道を譲って呉れるので、ゆっくり走れなかったという思い出がある。 杉並区のアパートから足立区の公団住宅に引っ越したら駐車場が無くなり、約2年間ほど自家用車なしで過ごした。 2台目は、ホワイトパールマイカの、昭和62年(1987年)式アルシオーネVX(AX9、初代アルシオーネの2700ccモデル)である。セダンからスペシャリティーカーに乗り換えた。あのスタイルだが2名ぶんの後部座席があり、通常は2人乗りでも、窮屈な思いを我慢すれば4名乗車が出来た。水平対向4気筒エンジンを積む1800ccターボはオールニューレオーネ(3代目レオーネ)と共通部品が多かったが、水平対向6気筒エンジンのVXは、生産台数が少なく、シャシ番号は002154だった(整備マニュアルによれば002010から始まる)。グロス150馬力と、1800ccターボのグロス135馬力と大差があるわけではなかったが、ターボ技術が今のように進んでなかった当時は自然吸気特有のエンジンフィールの自然さがあり、以後ずっと自然吸気車を乗り継ぐことになる(其の後の技術進歩でターボでも感触は悪くなくなったようだから次は分からない)。VXと1800ccターボとの大きな違いは、エンジンだけでなくサスにもあり、鉄サスではなくエアサスで、乗り心地は良かったが悪路性能はイマイチだし、整備時に何かでエア配管を一旦切るとデシケータの新品交換が必要だった。ハイトコントロールは、車高があまり高く上がらないのみならず、確か時速80キロメートルを超えると自動的に車高が下がってしまうのが悪路走行時に不便だった。変速機は、日本自動変速機(ジャトコ)と共同開発の、オーバードライブなしで4速と、当時としては画期的なATだった(共通部品を使ったオーバードライブ付きで5速のATが、日産自動車ローレルに積まれた)。転勤で足立区から横須賀市に引っ越す際に疲労が積み重なった状態で運転し、面目なくも追突事故を起こし、相手の三菱自動車パジェロの新車は廃車になり、此方も可也のダメージを受けたが、少量生産車ゆえゴムのエンジンマウントだけが在庫がなく新たに作ったため、修理に半年かかった(当時は今と違って月3万円未満でレンタカーを借りられるような時代ではなく、車なしで過ごしたが、近隣に鉄道駅や八百屋やコンビニエンスストアがある土地へ引っ越したので、不便はしたが困るほどではなかった)。レギュラーガソリン仕様だが、当初は清浄剤が入ったハイオクガソリン(金アポロ)を入れていて、レギュラーガソリン(赤アポロ)にも清浄剤が入るようになったから切り替えた。ABSが初装着され、時速100キロメートルのアイスバーンでのブレーキングを想定したという謳い文句だったが、切ることが出来ないため、浮き砂利があるところ(スキッドさせた方が早く止まる)では制動距離が伸びた。前後動力配分は、まだセンターデフは付いてなかったが、MP-Tを電子制御化したACT-4(アクティブトルクスプリット4)であり、タイトコーナブレーキング現象がほぼ解消されて常時四輪駆動になった、此れはセンターデフ式よりも直進性が良いという利点があるので主に米国向け車両で後のモデルでもけっこう使われたものである。あのスタイルゆえ、ボンネットを低くするため、オールニューレオーネと違って、前のエンジン上にスペアタイヤを収容できず、後ろのトランクルームにスぺタイヤが置かれており、フロアパンがオールニューレオーネと共通部品だったからかもしれぬが、他社の乗用車と違ってトランクルームの床下に収納場所がなかったので、スペアタイヤがトランクルーム内で邪魔だった。多分設計ミスと思われるが、前照灯のハイビームとロービームの切り替えスイッチが動かなくなったことが何回もあり、リコール対象ではなかったので、交換費用の数万円を数回、支払った。30万円近かった「現在位置を表示するだけ」のカーナビを装着した(本体は運転席の下と助手席の下に分けて固定し、ディスプレイは金具を作ってダッシュボードに取り付けた)が、当時はまだ、打ち上げ済みのGPS衛星の数も少なくてビルが多い場所などで測位不能になることが多かったし、民間用電波には故意に誤差信号が加えられていたので測位精度も悪かった(安全保障上の理由だが、一般の人には技術的な制約と思ってカーナビのことをコケにしていた方も居た)けれども、多くの人は画面上の地図に自車位置が表示されるのを見て007かSFの世界が現実化したと感動していたものである。次の転勤で横須賀市から沼津市に引っ越した際、沼津陸運局で全国に先駆けて試験的に実施していた希望ナンバー制度で「・333」を付けた(勿論、往年の大瀬康一が主演のテレビドラマ「バックナンバー333」から取った)。 アルシオーネVXは、私が運転中に意識を失って、国道一号線バイパス(当時)の大井川に架かる橋の上で車道から逸れてガードレールに突っ込む自損事故を起こし、ガードレールがフロントウインドシールドを突き破ってステアリングホイールを曲げて顔の数十センチメートル前まで来、静岡スバル自動車六合営業所までレッカー車で運び、応急修理をして、沼津まで自走した。修理は、不可能ではなかったが、前部の復元に近い大修理となるのと、多くの修理用部品の手配が困難だったので、断念した。意識を失った理由は当時は不明だったが、数箇月後に重度の睡眠時無呼吸症候群(SAS)が原因と判明し、手術をした。 |