今回はちょっと変わった文章をお目にかけよう。神奈川県医師会報の2008年新春随想特別号の原稿だ。どうしても書いてくれとの依頼で、まだ締切までは間があるのだが、はやく終わらせたかったから書き上げてしまった。医師会の雑誌に出るわけだが、周りの文章とはだいぶ毛色が違うかもしれない。読むのは医者ばかりであり、一般の人の目には触れないので本音が書いてある。
今回は特別に、特別ですゾ、皆さんだけにお見せすることにした。掛川での講演会の内容とダブるところもあるが。
感想を遠慮無く言ってくれ。
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得手に帆上げて 相模原市 川野信之
筆者は昭和18年生まれであり、今年64歳となった。自分がまだ小さかったころ、祖父は「40、50は鼻垂れ小僧」とよく言っていた。60歳を過ぎてやっと一人前の大人なんだよという意味だろうが、現実はそうはいかない。いまだに迷ってばかりだし、色気も残っている。
思えば、これまで我ながらずいぶんと好きなことをやってきた。
高校時代は勉強が嫌いで、生物研究部に入ってプランクトンの研究をしていたし、弓道部、山岳部にも入っていた。クラシック音楽にも傾倒していた。成績にはまったく興味が無く、3年生の時の期末試験では120点満点で5点とか8点しかとれなかった。親に答案を見せると叱られそうで、見せなかった。大学に行きたいとはぼんやり考えていたが、勉強をしなかった最大の理由は〝自信過剰〟だった。大学の入試なんか試験の半年前から勉強すれば受かる、と信じていたのだから。ところが現実はそんな甘いものじゃなく、大学入試では見事に落ちてしまった。
瀬戸際に立たされた筆者は浪人となって必死に勉強し、生き物が好きだったし、父親の勧めもあって九州大学医学部に入った。教養部では適当に遊んでいたが、医学部に進むと医学の面白さに取り憑かれてしまった。ことに病理学は好きで、アンダーソンの病理学を2年かかって読破した。読み終わる頃には英語の医学書は辞書をひかないでもスラスラ読めるようになっていた。ポリクリでは白衣のポケットにはドロナワ用のメルクマニュアル(当時日本語版は出ていない)が入っていた。
昭和44年に大学を卒業したが、当時は大学紛争のまっただ中であり、医学部の腐敗に憤慨した筆者は大学を批判する側に立った。戦い破れ、大学と縁を切った筆者は山口県柳井市の病院に外科医として4年いて、その後、新設の北里大学の脳神経外科に赴任して相模原市の住人となった。北里では臨床、脳腫瘍病理の研究、教育のそれぞれが面白く、平成12年に退職するまでよくがんばったと思う。正直に言えば、臨床は面白いと言うより辛いことのほうが多かったが・・・。社会のために、患者さんのために、といった医師としての崇高な目的意識あるいは義務感は、筆者にはない。人に喜んでもらえば、自分が嬉しいし、悲しい顔を見るのはプロとして恥ずかしい。
座右の銘というか、好きな言葉は本田宗一郎の「得手に帆上げて」と、井口 潔先生の「狭い分野でいいから世界のトップになれ」である。この2つを実践するべく生きてきたように思う。さいわい脳腫瘍病理では部分的ではあるが世界のトップに居ると思う。
20数年前からフライフィッシングという釣りを始め、それまでやっていたゴルフはぷっつりとやめた。フライフィッシングで鱒や鮭を釣るために外国によく行ったし、釣りの雑誌に原稿を100以上も書いてきた。50歳ごろから書きためたメモを集めて2005年には「フライフィッシング用語辞典」を出版した(http://www.kawanobooks.com/
)。項目数3275、重さ1.5キログラムの大著となった。その後、その本の英語版を出版すべく英訳作業を続けてきたが、そろそろ完成が近づいてきている。得手の英語を活かしたというわけである。この分野で世界のトップになるかどうかは、わからない。こんなことをやった男がいたという証拠を残したいとの自己顕示欲の現れであることはまちがいない。
ほんとうに、これまで、家庭も顧みずに、おそらく周囲に多少の迷惑をかけながら、ずいぶんと好き勝手なことをやってきた。今後はせめてもの恩返しをしなければと、少しだけ思っている。
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