焚火男
二人でビッグホーンに行ったときに聞いたかなあ。そうだったかもしらんし、はっきり記憶がない。
実はケン・ミヤタが死んだのはビッグホールだったかビッグホーンだったか迷っていたんだが、今回の記事を読んでスッキリしたよ。
3年間の濃密な人生だったんだろうね。
このところ、日記に書くネタが多くてね、順番待ちの状態だ。 今回は三島のY田さんという釣り友達がある英語の文をみつけ、訳してほしいと送ってきた。それはケン・ミヤタという日系アメリカ人の追悼文であった。 ケン・ミヤタはアメリカではフライフィッシャーマンなら知らない人がいないくらいの有名人だ。1980年代、ぼくがシルバークリークに釣りに行ったとき、サリバン沼の岸に碑があり、それはケン・ミヤタの慰霊碑であった。彼のことは日本では紹介されたことはないようなので、雑誌社が希望すれば書いてもいいなと思っている。 紹介するのは「ハーバード・マガジン」というハーバード大学関係者でやっているネット・ジャーナルに2000年に出た記事だ。 ま、お読みあれ。こんな釣りキチがいたんだね。 ------------***------------ ケン・ミヤタ 伝説的フライフィッシャーマンの短い一生:1951-1983 クレイグ・ランバート 彼が32歳で亡くなった時、ケネス・イチロー・宮田 (博士号 '80) は世界で最も有名なフライフィッシャーマンの1人でした。彼の名前を聞いたことがなかった人でさえも、川では即座に彼の釣りの才能を認識することができたものです。以前、宮田はウー博士を含む2人の大学院生と一緒にニューヨーク北部(訳者注:正しくはバーモント州と思われる)のバテンキル川に釣りに行きました。「私たちは、彼がどれくらい釣りが上手なのか知りませんでした」とウーは話しています。「ケンは浅瀬に入りキャスティングを始めました。すると10分もたつと他の釣り人は川から出て土手に座って彼の釣りを見るようになっていたのです」 宮田はすばやく魚を釣り、たくさん釣るのです。「私がウェーダーを着ている間にケンは3匹の魚を釣るでしょう」と彼の釣り仲間の1人は言いますし、マーク・ストルトは4時間の間に宮田が73匹の鱒をリリースしたことを覚えているそうです。(真のフライフライフィッシャーマンと同様に、宮田は”キャッチ・アンド・リリース”を守っていました) もっとも釣った魚の数は彼にとってはほとんど意味のないものでした。釣り仲間である放射線医学講師のカール・ゲイヤーは「ケンは流れで最も困難で悪賢い魚を捕らえた時に初めて成功と考えていた」と話しています。また「ペンシルバニア州のビッグスプリングには、6~8ポンドはありそうな巨大なブラウントラウトが大きな沈木の下にいて、”ジョージ”という愛称で呼ばれていました。もし釣り鉤に掛かれば、その鱒は下流に走り、糸は沈木にからんで切れてしまいます。ケンはそのジョージを一度鉤に掛けたことがあるのです。私が知るかぎり、他にジョージに鉤を掛けた人はいませんでした」。もしケンが今日生きていたとしたら、とジャック・ガートサイド (有名なフライフィッシング・エキスパート) は言います、「釣りで彼に勝てる人は誰もいないでしょう」と。 ロサンジェルスで生まれた宮田は近くのコヴィーナで成長し、アイダホで魚を釣ることを学びました。そこでは彼の叔父さんがポテト・ファームを持っていたのです。宮田は1973年にバークレー大学の生物学科を最優秀の成績で卒業した後、ハーバード大学で爬虫類学を専門に研究しました。彼は南アメリカへよく旅行しました。それは学位論文の主題である”爬虫類の多様性”の研究のために、エクアドルの熱帯雨林でフィールドワークを行っていたのです。彼の唯一の著書である”トロピカル・ネイチャー、熱帯の自然”は、エイドリアン・フォーサイス博士との協力で生まれたものです。宮田はスミソニアン協会で研修を積んだ後、彼はネイチャー・コンサーバンシー(自然管理団体)から中南米地域の自然財産をリストアップする仕事で雇われました。彼はその仕事を嫌々ながら引き受けたのです。なぜなら、年中やっている釣りが年に数ヶ月しかできなくなるからでした。 優れた科学的な洞察力を持つナチュラリストに釣りの才能と情熱が加わって、宮田は無比の釣り師になっていきました。彼のコンピュータ・ファイルには釣った魚だけではなく、フライ、フック、水の状態、天候、およびハッチしている昆虫までもが日付と時間とともに記録されていたのです。ターキー・バスター(七面鳥にかけるソースが入ったチューブ付きの容器)を使って、彼なら魚がその日食べた昆虫を知るために鱒の胃の内容物を調べたかもしれません。彼の釣り雑誌の記事には、鱒によく補食されるカゲロウの種を同定するために彼自身が撮った専門的な写真が添えられています。最も有名な文は”Fishing like a Predator、肉食動物のように魚を釣る”というもので、釣り師はミサゴやカワセミから学ぶべきことを指摘しています。釣り師が実際の魚食動物と違う点は、私たちは成功と同じくらいに失敗を楽しむオプションを常に持っていることです、と茶目っ気たぷりに文を締めくくっています。 宮田は年間200日釣りに行き、夏には必ずアイダホとモンタナの川へ釣りに行きました。大学院生の時のことですが、彼は握り飯を食べながら(マサチューセッツ州の)ケンブリッジからモンタナまで一気に32時間車を運転して行ったことが何度もあるのです。「ケンの食事はひどいものでした。米と豆とじゃがいもばかり食べていたのです」とウーが言っています。ガートサイドは、彼はチーズバーガーも好きだったし、フレンチフライやマヨネーズも食べていたよ。終夜営業の簡易食堂でね、”ビタミンの油をつけてね”と栄養摂取の必要性を認めながら彼が言っていたのをガートサイドは覚えているそうです。彼は金銭にはまったく無関心でした。彼の持ち物の大部分は釣り具であり、カメラ関連の機材、IBMタイプライター、そしてラジオ・シャックで買い集めた部品をつなぎ合わせて作った手製のコンピューターなどでした。 彼が自分で満足感を感じるのは川の上だけでした。そこでは彼は”至福なる狂人”だったのです。「僕は大きなヘンリーズ・フォークで、強い日差しの中で、平たい水面の上の小さなドライフライを朝6時から夜の9時まで凝視し続けていたんだ。釣りに熱中して食べることを忘れていた、と彼は書いています。「これは何週間も続き、毎日の終わりには僕は空腹と脱水と日焼けで這いながら車まで戻っていったものだった。僕はその時あまりに熱中していたものだから、頭痛とか目がかすむなんてことを感じたことは一度だってなかった」と。 彼は、「僕が一緒に魚釣りをした人々の中には多くの有能な釣り師がいるし、やや釣りの下手な人もいた。僕はどちらの釣り師とも楽しんで共に釣りをしたよ」とも言っています。 いっぽう、彼は一人で釣りに行くのも好きで、1983年10月14日、彼はモンタナのビッグホーン・リバーに一人で釣りに行って川で溺れたのです。「ケンはウェイディングがとても上手だったけれど、ビッグホーンには苔が生えてひじょうに滑りやすい場所があるんだ」とガートサイドは言っています。「彼はおそらくロングキャストをした時に滑って川で強い水流に流され、大きな渦に巻き込まれ、回転したんじゃないだろうか」と。宮田は流されても手から竿を放しませんでした。その結果、彼の体はフライラインで数えられないくらいぐるぐる巻きになっていたのです。ガートサイドは言います、「彼の遺体はほとんど(布でグルグル巻きにされた)ミイラのようだった」と。 アイダホのシルバークリークにはネイチャーコンサーバンシー(自然管理団体)によって宮田の名誉をたたえる記念碑が設置されています。そしてウーは現在ハーバード大学で彼の名前が付いた奨学金を設立するために活動しています。 彼の死後、友人および家族によって遺骨がヘンリーズフォーク(おそらく彼がもっとも愛した流れ)に撒かれました。彼は”すべての釣り人の中にあるナチュラリスト”と彼が呼んだものを具体的に実現した好例でした。ケン宮田は、釣り竿とカメラを持っていろんな川や湖を探索し研究したのです。 -------------***----------- |