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2008年06月23日(月) 



英語を習い始めた頃は、英語で話すことは日本語を別な言葉で言い換えるようなものだと思っていた。つまり、「本」のことを ’book’ というようなものだと思っていた。
だが、自分の考えを英語にして話すようになると、それはまったく違った考え方を表現するもであることが分かった。
日本語で話すと、事実 (客観) と考え (主観) の区別ができない。それは、時制がないからである。日本語は、実況放送・現状報告のための言語である。事実はうつつ (現) であり、うつつを抜かさないで話をするには、自分の考えの方を抜かさなくてはならない。
考えを抜かして発言すれば、それは考えの無い人 (思慮の無い人) の発言となる。考えを入れれば、それは事実と違った内容になり嘘と考えられる。これが、日本語を使う時の悩みである。
日本語で話す英米人は、事実と考えの区別が疎かになることはないから、それは日本語そのものの性能というよりも、日本人の日本語の使い方が適当でないということであろう。
我が国では、医学博士だの工学博士だのと博士の種類がやたらと多い。米国においては、おおむね博士は、哲学博士 (Doctor of Philosophy, Ph. D.) である。科学においては、事実に基づいて自己の哲学をつくるのであるが、我が国においては、いかなる分野の事実であるかが重要なことであるらしい。事実の専門家というか、いわゆる物知り作りが尊重されているからであろう。米国では個人の考えが中心になるから、いかなる分野の事実に基づいているかはあまり重要なことではない。このことは、言語の違いに起因する着眼の違いであろう。
事実と考えは内容の次元が違う。事実は現実であり、考えは哲学である。その内容に関する頭の中と頭の外の違いである。
考えを育てない我が国の教育は、暗記とその受け売りの教育になる。いわゆる詰め込み教育であり、その弊害が全国的に及んでいる。その結果、いつまでたっても試験地獄・受験地獄を避けることが出来ない。
言語能力は思春期に発達する。考えの内容である「あるべき姿」(things-as-they-should-be)は、未来時制の内容である。事実の内容である「今ある姿」(things-as-they-are) は、現在時制である。時制の使い分けができれば大人であるし、出来なければ子供である。
思慮に欠けた人間は、12歳の大人のように見える。これが、英語脳には見られない日本語脳にかかわる特殊な問題点である。
考えのない人には、リーズン (reason) が見られない。そして、リーズナブル (reasonable) な回答が得られない。リーズンとは、理性・理由・適当のことである。日本語には、リーズンに相当する言葉がない。だから「適当にやれ」は、「不適当でもかまわないと」解釈されたりしている。考えがないとは、そういうことである。こうした事情が、日本人の考え方の詰めの甘さになっているのであろう。
個人の適当に基づく構想ができないと、偉大な世界の構想も、偉大な国家の構想も、偉大な都市の構想も持てないことになる。それどころか、我が国にふさわしい空港の構想さえも満足に描けないらしい。その実現となれば夢のまた夢とゆうことになり常に諦観に達しているようである。とにかく我々は、個人の構想を基にして力を結集することが難しい。
構想の持てない個人同士が議論をしても構想比べにはならず、不毛の議論になる。構想の持てない人たちが、あえて議論をすれば喧嘩になります。そこで、和を求めている日本人は、議論を避けて談合することを好みます。対立した構想からはよりよい方策も生まれようが、談合の中の対立は時間の浪費にしかならない。
こうしたナーナー主義は構想の発展にはつながらないし、英米人相手の話にもならない。だから、我々は我々の従来のやり方をもう一度考え直してみる必要があるのです。


Professor Terashima is an accomplished scientist but also an acutely observant philosopher and sociologist whose critical ideas are deeply penetrating. What he writes will give his readers much cause for reflection. His contribution is that he articulates through carefully structured analysis what the Japanese have for a while but only vaguely suspected about themselves.

沖縄県立芸術大学教授 A. P. Jenkins



You can read more at http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
and also at http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/


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閲覧数1,786 カテゴリ日記 コメント2 投稿日時2008/06/23 17:35
公開範囲外部公開
コメント(2)
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  • 2008/06/23 20:17
    さん
    お名前:

    最後に表現が「です、ます」に変化したのは、無意識または意識的な「客観」から「主観」への変化であろうか?
    次項有
  • 2008/06/23 20:47
     > 最後に表現が「です、ます」に変化したのは、無意識または意識的な「客観」から「主観」への変化であろうか?

    コメントありがとうございます。

    私は「です、ます」の変化には、特別な注意は払っていなかったのですが、何か貴方自身のご意見がありましたら、お聞かせいただけませんか。
    次項有
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