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2008年10月08日(水) 
 石井研堂という明治時代に活躍した論客・著述家・釣り人が居て、明治39年に「釣遊秘術釣師気質」という大著を書いた。釣りの話、釣り具の紹介などが書かれていて、日本での釣りの文献としてはとても価値がある本になっている。石井の釣友であった幸田露伴がその本の「序」を書いていて、これが有名な「遊漁の説」であり、釣りの本質を指摘した名文とされている。僕も前から読みたいと思っていたが、古い本だし、ほぼあきらめていたところ、ひょんなことからその復刻版(昭和52年出版)を入手することができた。
 さっそく「序」を読んだが、これがけっこう難解でね。今は使われない漢字がたくさん出てくる。が、この際と思って読みやすい文章に直すことにしたので、今回紹介する次第だ。
 かなり長いが、抜粋するのも面倒なので全文を載せよう。いくつか共感できない部分もあるが、大筋ではとてもよく書かれていると思う。さあて、現代文ではないからかなり読みづらいが、最後まで読めるかな?最後まで読んだ人、感想を聞かせてもらいたいな。



-----------***-------
遊漁の説

 魚を釣る人おのずから二種あり。そのひとつは利益のためにする人にして、そのひとつは娯楽のためにする人なり。利益のためにする人はすなわち真の漁夫にして、その魚を釣るや、これを獲り、これをひさぎ、もって衣食に代え、もって妻子を養わんと欲するなり。娯楽のためにする人は、別に各自の職業を有するの人にして、その魚を釣るや、興を感じてもって心神をじ悦せしめ、労に服してもって身肢を強固にせんと欲するなり。この故に二者のその魚を釣るはすなわちひとつなるも、しかも魚を釣る所以はすなわち同じからずして、二者おのおのその相違なりたる目的あり、相異なりたる性質ありというべし。二者の間にはおのずからまさに巨溝厳界あるべきなり。
 漁夫の釣りは多く魚を獲るを主とすべし。必ずしも興ありなきを論ずべくにあらざるなり。漁夫にして遊漁者の所為を学ばば、これ勤勉なる漁夫にあらざるなり。
 遊漁者の釣りは興を得るを主とすべし。必ずしも魚を獲るの多きと少なきとを論ずべきにあらざるなり。遊漁者にして漁夫の所為を学ばば、これ品格ある遊漁者とは言うべからざるなり。漁夫はその餌料をして廉にしてかつ有効ならしめんことを企図すべし。遊漁者は餌料をして有効ならしむれば可なり。必ずしも廉価ならしむるを要せず、ある時は百本一円あまりのフクロイソメを用い、ある時は一合数十円のバチを用いるもまた可なるなり。漁夫はその竿を強くし、その釣り糸を強くし、もってその「魚取り」を速やかにして、多獲せんことを期すべきなり。遊漁者はその竿を敏にし、その綸(釣り糸)を細くし、もってその「魚アタリ」を精妙にし、興を多くせんことをはかるべし、必ずしも「魚取り」を速やかにして多獲せんことを図るを要せざるなり。
 遊漁者にして廉価の餌料を用い、無趣なる釣り具を用い、しこうして単にその漁獲を多くせんことをはからば、その人はすでに娯楽のために魚を釣るの人たらずして利益のために魚を釣る人なり、尊重すべき自己の本来の職業あるを忘れて、新たに拙劣なる一漁夫となりしに等しく、たとえ時に多獲するあるべきも、むしろその人のために嘆ずべきを見て慶すべきを見ざるなり。これに反してわずかに数尾の魚を得るに過ぎざるも、よく遊漁者たるの品位を保てるものは、その人実によく内は堅く職業を忘れず、外は快く娯楽を取るの君子たりというべきなり。「一本釣り」にあらざる「延縄釣り」のごときは、ほとんど漁夫の所為に近きことなれども、しかもまた興味無きにあらざれば、遊漁者としてこれを試みんも不可なること無し。しかれどもたとえ「針魚縄」などを試みんにも、遊漁者はおのずから遊漁者の精神と態度とを保ち、決して漁獲に利によってもって生活する真正の漁夫の如くなる無きを要す。しからずんばその人は遊漁者たるの名を冒すのみにして、その実は漁業者組合にも加入せずして私に漁業に従事する卑劣狡猾の一漁夫たりと言うも誣いずというべし(真実であろう)。
 遊戯はすべて心を楽しましむるのためたるべし、生を営むのためたるべからず。娯楽はすべてその趣あらんことを期すべし、その利あらんことを期すべからず。かつて聞く、英国の紳士は銃猟を試みるにあたって、その七号弾用うべきところには六号弾を用い、その五六号弾用うべきところには四五号弾を用いて自ら悦ぶの傾向ありと。しかし弾小にして数多ければその命中率の高きは争うべからざるの事に属するをもって、四号弾を用うべきところにはむしろ五号弾を用い、六号弾を用うべきところには七号弾を用うべきに、英国紳士のこれに反してかえって弾大にして数少なきものを用いる所以のものは、弾小にして力微なるものを用うれば、時にあついは羽族を傷つくるもこれをして即死するに至らしめず、ために銃猟者はやむを得ず手ずからこれを撲殺して獲物嚢に収むるの惨状を演ぜざるを得ざることあるを嫌い、弾大にして数少なき結果として命中率は高からざるも、当たればすなわち羽族をして容易に死するに至らしめ、甚だしく興味を減殺し悪感を惹起する撲殺のごとき惨事をあえてするの要無きを悦べばなり。銃猟の事、もと心を楽しましめんがためにして利を征せんがためにあらざれば、この如き英国紳士の用意は、実に遊戯娯楽の本趣を解し、兼ねて自己の本来の職業と地位とを忘却するが如き愚に陥らざる正確高尚なる智慮と品位との発現というべし。
 それ魚を獲るの道、いやしくも多獲を図らば、一本釣りは延縄釣りに及ばず、延縄釣りは網漁に及ばず。千余年のいにしえにおいて淮南子すでにこれを言えり。一本釣りを試みるがごときはそもそも愚かなりというべし。しかれどもその興趣を論ずれば、網漁は延縄に及ばず、延縄釣りは一本釣りに及ばず。漁獲の多寡と興趣の深浅とは、正比をなさずして反比をなすがごとし。すでに漁獲の多寡と興趣の深浅とは反比をなすに似たり、遊漁者たるもの何を苦しんで生計のために齷齪(あくせく)たる漁夫の態度を学ぶを要せんや。遊漁者はまさに自ら寛くし自ら重んじ、悠然として水雲の間に楽しむべきなり。
 遊戯娯楽はその遊戯娯楽のための遊戯娯楽にあらず、遊戯娯楽はその人の身肢を鍛錬し心神を怡悦せしめて、しこうして後おのずからその人本来の職業に対する気力を鼓舞振作し意楽を熾盛増進し、もってその職業上における腐気を排去し精彩を附与するに至って、はじめて遊戯娯楽の真旨に適し妙用を果たせりというべし。しからずんば遊戯娯楽の事たる、ただちにこれ堕落に坂路ならんのみ。遊戯者の魚を釣るも、魚を獲らんがために魚を釣るには相違なけれども、単に魚を獲らんがために魚を釣るにはあらず、実は心を楽しましめんがために魚を釣るなり。釣魚の遊戯に借りてもって心を楽しませんとするなり。魚を釣るは手段なり。目的にあらざるなり。遊漁者はつねにこの点において自己立脚の地を錯過せざるを要す。
 遊漁者は心を楽しましめんがために釣るなり。されば不快を招くげきがごときことはすべてこれを避くるを智ありとす。この故に釣り具は奢侈ならざる限り精良なるを用うべし、決して下劣粗悪なるを用うるなかれ。たまたま大魚の鈎に上がるにあたって竿折れ糸が絶ゆるがごときは、けっして愉快ならざる事なればなり。餌料は高価なるもむしろ有効無疑なるを用うべし、低価なるも不適当なるを用うなかれ。他人は幾十回の「魚当たり」を見るに、自己は優等ならざる餌料を用いたるがために多く「魚当たり」を見ざるがごときは、決して愉快ならざる事なればなり。
 船宿は親切にして船中の器具十分完備せる家を選むべし。待遇不親切なる船宿より器具十分に完備せざる不潔なる老船に乗ずるがごときは、多くは愉快ならざる事の生ずるに遭遇するを免れざればなり。舟子は経験あり技量ありて、性質頑固ならざるものを雇うべし。釣りの結果の良否は、いにしえの黒田五柳の「一勘、二根」と道破せしごとく、第一は「勘」の巧拙に存するをもって、拙劣なる舟子は常に「勘ちがい」を為し、釣り客をしていたずらに魚族の棲息せず来往せざる地に垂綸せしめ、日がな興味無く労苦せしむるの愚を演じ、またその性質不順の徒は自己の意見を固執し、ややもすれば釣り客の命令を用いずして剛腹自ずから用う。この如きは釣り客にとりて皆決して愉快ならざるの事なればなり。
 他に対する、すべて寛大なるべし。苛厳なるなかれ。寛大は不愉快を化して愉快とするの気象にて、苛厳は愉快を変じて不愉快とするの気象なればなり。特に釣魚上の自己の偏狭なる経験信仰等をもって自己と軌を異にする他人の所為所見等を苛評するがごときは、遊漁者の陥りやすき過失にして、もっとも避けざるべからざるの事なりとす。鈎の大小、竿の強弱、「合わせ口の加減」等については、例えば政治界に保守党あり急進党あり、経済上に自由論あり保護論あるがごとく、人おのおの信ずるよころあり好むところあって、互いに相守るべく、互いに相奪うべからざればなり。
 自ら処するはすべて「まめやか」なるべし、疎懶(そらん=いいかげんに行うこと)なるべからず。「まめやか」なる事は不愉快より愉快を検出するの方法にして、疎懶なる事は愉快より不愉快を招致するの方法なればなり。「まめやか」なれば身労して心逸し、疎懶なれば身逸して心労するなり。
 争心を有するなかれ。争心なければ人十尾の魚を得、我七尾を得るも、また悦ぶべし。妬気を懐くなかれ。妬気を懐けば、我百尾の魚を得るも、人百一尾を得れば、すなわち憾(=うらみ)あるなり。
 よく労に服せよ。舟を浮かぶるは身を労するの道なり。労を厭わばすべからく家にありて蒲団に座すべし。
 財を論ぜざれ。釣りして遊ぶは財を費やすの事たり。損益を論ぜんものはむしろ市にあって魚肆(ぎょし=魚屋)を問うべし。
 日々よく勤め、ときどきよく遊び、家にあっては各自の職業を忘れず、綸(=糸)を垂れては釣魚者の資格を忘れず、惕弱(てきじゃく=ひやひやして恐れるさま)として常に慎み、悠然として長く楽しまんものは、心に憂い無く、身に病無く、清福十分、俗にして仙たり、愚にして哲たらん。たとえその釣るや、はなはだ拙にして、大公望の五六十年にして一魚を得ず、康王父の五百年にして一魚を得ざるがごとくなるも、またまたまことによく釣るものと言うべし。
                露伴迂人題

閲覧数1,195 カテゴリ日記 コメント8 投稿日時2008/10/08 15:42
公開範囲外部公開
コメント(8)
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  • 2008/10/08 17:32
    S藤さん
    こ、この一文は・・・スゴイですね。「巨溝厳界」という表現も初めて知りました。

    この故に二者のその魚を釣るはすなわちひとつなるも、しかも魚を釣る所以はすなわち同じからずして、二者おのおのその相違なりたる目的あり、相異なりたる性質ありというべし。二者の間にはおのずからまさに巨溝厳界あるべきなり。
    次項有
  • 2008/10/08 19:28
    鉛筆狂四郎さん
    なかなか、でしょう。
    釣り人の誇り、矜持を高らかにうたいあげている。
    人生訓も含まれているような感じだし。
    僕も折りがあったら一部を引用しようと思っている。
    次項有
  • 2008/10/09 00:07
    オガ爺さん
    ・・こりゃあスゴイ!
    普段は書き込みを自粛するも、これには思わず・・。

    ・・で、先生、どのあたりに共感できないのかなぁ・・?

    「巨溝厳界」=「きょこうげんかい」
    と読むんですよね?
    小生の機械は、これの変換ができん・・。
    古い言葉は捨てられるんですかねぇ。

    でも、なるほどなあ・・と、納得しきり。
    この一文を読ませたい釣り師は、「ごまん」といますね。
    あ、オレもか・・はは。
    次項有
  • 2008/10/09 08:50
    文章を読むことが苦手な僕は、2行でギブアップです。
    要約を3行くらいにまとめてもらえるとありがたいんですが・・・・
    次項有
  • 2008/10/09 10:13
    鉛筆狂四郎さん
    オガ爺は意見を聞かせてくれると思っていたよ。

    共感できないのは
    「自己の本来の職業と地位とを忘却するが如き愚・・・」
    「遊戯娯楽はその人の身肢を鍛錬し心神を怡悦せしめて、しこうして後おのずからその人本来の職業に対する気力を鼓舞振作し意楽を熾盛増進し、もってその職業上における腐気を排去し精彩を附与するに至って、はじめて遊戯娯楽の真旨に適し妙用を果たせりというべし」
    のあたりかな。
    職業を第一に、釣りは二番目というのが、どうも明治時代の男の価値観にとらわれている感じがする。公序良俗を薦め、大衆・社会に迎合している感がある。もっと、釣りは釣りなりの独立した世界があると思っている僕としては不満なのです。僕は社会と釣りとはどちらかが優位に立つというわけではなく、同等の価値があると思っていて、心の中では「棲み分け」させています。この辺が露伴の姿勢にやや物足りなさを感じます。だが、一定の限界をもうけ、その中で楽しむことを慎み・品格としているのは良く理解できるところです。
     だけどね、露伴は格好をつけてこんな序を書いたが、実はかなりの程度に釣りにのめり込んでいたことが知られています。狂っていたと言ってもいいでしょう。だから裏読みすると、彼も自戒を込めてこの部分を書いたのかもしれません。
     ここまで、想像や彼の行動を交えて考証すると100%OKになってしまいます。つまり、文章だけで考えると、ちょっと不満ということになる、という意味です。
    次項有
  • 2008/10/09 10:28
    鉛筆狂四郎さん
    釣りたいクン3号へ:

    3行にまとめろと、な!
    そりゃあ無理だよ。
    頑張って読んでみろよ。

    釣りは遊びだから楽しむことが第一だ。楽しみ方は各人様々なので、まわりでとやかく言うべきではない。職業を第一に、釣りは二番目にしなさいと書いてある。面白いのは露伴は家庭を大事にしろとは一言も書いていないんだよ。やはり、明治の男なんだろうなあ。
    次項有
  • 2008/10/09 22:34
    オガ爺さん
    なるほど・・オレっちは仕事も趣味もいっしょくた・・。
    この一節には引っかかりませんでした・・(^^;)
    でも、先生の日常を思い起こせば、そりゃあそうだろうなあ、と腑に落ちましたです。

    それにしても・・我らFFMは先端を走ってる・・などと驕っている節もありますが、知らず内に露伴の背中を追いかけていたんですね。
    いやはや、先達には適いませんなあ。

    で、
    「裏読みすると、彼も自戒を込めてこの部分を書いたのかも」
    僕も、これは感じました。
    「釣り人よ、謙虚なれ」と叫びたいですね。
    うん。
    次項有
  • 2008/10/09 22:50
    鉛筆狂四郎さん
    やはり露伴はスゴイ人だったようだね。
    だから「釣聖」と呼ばれているんだろうね。
    釣りなんて進歩しているようで、
    進歩したのは道具だけで、
    本質はむしろ先達の方が深みに到達していた
    ということなんだろう。
    次項有
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