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神奈川県医師会では新春随想という医師会報の別冊を年末に出す。その原稿の締め切りは9月末日だった。僕も一つ書いたので、少し長いが紹介することにしよう。親父の一言は子供の人生を左右することもあるという例として。 ---------**---------- 親父の一言、二言・・・ 川野信之 その「一言」。 私は大学受験を一度失敗している。現役の高校生の時には遊んでばかりで自分の将来のことを考えたことは一度もなかった。高校三年の秋、クラス担任から君は大学を受験するつもりはあるのかね、今の成績じゃどこにも通らないよ、と言われたものだ。私は生き物が好きで、生命の神秘を追究してみたい、生命の合成なんておもしろそうだと思い、ある国立大学の理学部生物科を受験したが、見事に不合格となった。そこで仕方なくその高校に設置してある浪人生向けの塾にかようことになった。そのとき初めて自分の将来のことを考えた。こりゃあいかん、このまま大学に行けなかったら自分の人生は開けない、と真顔で思ったものだ。そこでまじめに勉強に取り組むことにして、彼女もいたが、一年間は会わないことにした。 勉強を始めてみると、なにしろ高校ではほとんど勉強していなかったので、ずいぶんと戸惑ったが、半年を過ぎる頃から要領がわかってきて、成績も上がっていった。そして大学のどの学部を受けるのかということを決める段階になった。卒業した大学の学部によって職業が決まってくるという社会の仕組みもわかってきた。生き物の研究もおもしろそうだが、職業にするとなると不安があった。私の長所は何だろうかと考え、私は高校で同級生と論争をして負けたことが無いので弁護士が向いているのかなと思い、そうなると法学部ということになる。自分の適正に不安を感じて、市の職業相談所にも行ってみた。いくつかのテストをやらされ、成績が良かったらしく、相談員はこれなら何をやってもそれなりにできるはずだ、何になってもいいのなら医師になったらどうか、と言った。私の将来の選択肢の中に医師は入っていなかった。それは身近に医師が居なかったことがあるかもしれない。やりたくなかった職業が一つだけあった。それはお金を扱う職業で、親父は公認会計士で金の計算で苦労しているのを見てきたからだ。追い詰められた私は親父に今後の進むべき道の相談をしてみた。私の話を一通り聞いた親父は、 「医学部と法学部のどっちでも通るだけの成績があるとなら医学部に行ったほうが良かタイ」 と言った。 「文化系に行ったら一把ひとからげに扱われでしまうゾ。理科系に行って技術を身につけときゃあ、世ん中が共産社会になっても食っていかれる。外国でも通用するケンな」 と言ったのだった。私はなんとなく納得し、 「じゃあ医学部に行くことにする。ばってん、行ってみて自分に合わん思うたら法学部を受け直しても良かね?」 と聞いた。 「そりゃ良か、行かせちゃろう」 と言ってくれた。 今振り返ってみるとその親父の一言が私の人生を決めたことになる。このことを親父にとても感謝しているが、面と向かって言ったことはない。今となってはそれが心残りだが、その親父も今はこの世にいない。 医学部に行ってみると私は医学の面白さに取り憑かれ、よく勉強した。試験の前に〈試験は最低限の事を聞いてくるっちゃから100点とるのが当たり前タイ、その上を行かないかん〉と私は同級生に言っていたのだから。今考えれば恥ずかしい限りだ。 その「二言、三言」。 親父は昔の神戸商科大学、今の神戸大学経済学部を卒業して、東京の大手生命保険会社に入社したそうだが、そのままおとなしく勤めていればいいものを1-2年で辞めて、福岡市で会計士事務所を始めたのだ。一人で細々とやっていたので、私の家は貧乏であった。 「私立大学なんて行かせる金はないケンそのつもりでおれよ」とよく言われたものだ。歳をとってからは 「金がほしけりゃあその分だけ働きゃいいっタイ。気楽なもんタイ」とも言っていた。 親父は洒脱なところがある人で、寝るときには 「さあて、死んだまねでもするか」 と言い、母は嫌な顔をしていた。 晩年には仏画をよく描いていたが、その一枚は我がクリニックの待合室の一角にある畳の間に飾ってある。 その親父もだいぶ前に他界した。享年68歳だった。私は親父より長生きする予定なので、あと3年は死ぬわけにはいかない。これまで多くの人から助言をもらったが、私の人生を左右したのはどうやら親父の一言だったようである。 |