その堰堤は木々に包まれて暗くひっそりとしたところにあった。車で近くまでは来られるが、森の中を歩いて、最後の急坂を降りれば、堰堤下のプールの下端に出られる。さして大きくはないので釣り人は一人しか入れない。堰堤自体は3メートルほどの高さがあるので魚が越えるのは難しく、いわゆる”魚止め”状態になっている。そして、最深部は2メートルほどはありそうなので大物がひそんでいる可能性はじゅうぶんにあった。
ここに初めて行ったのは去年のこと、白馬村で「フロンティア」というペンションをやっているY田さんに連れて行ってもらったのだった。そのあとボクは一人でこの堰堤に通い、その大イワナを見た。そのときイワナはプールの渕尻に居たようで、ボクが木の枝の下にフライを振り込もうとキャストを繰り返しているときに、浅場からゆっくりと深みに向かって移動していくのが見えたのだった。浅場だったので魚体がよく見え、黄色っぽい色で、大きさは50センチメートルとおもえるほど大きかった。ボクは信じられないものを見て、息をのみ、大イワナの消えていった方向を見つめたものだ。
一度見てしまえば、釣り師なら忘れられるはずがない。何度もその大イワナの姿が脳裏に浮かびあがり、他のいっさいのことがらは消えてしまう。当時フロンティアにもどってこの話をすると、みな半信半疑といった目でボクを見ていたように思う。ただ一人、Y田さんだけは、
「あそこには居るんですよ、巨大なイワナが。僕は何度か見ています。まだ釣ったことはないですが・・・」
と言っていた。ここまでの話は「幻の大イワナ」として去年このブログで紹介したと思う。これは”まえおき”であり、ここからが今回の話、である。
7月22日(金)。夕方、ボクとY本さんでその堰堤に行った。虫はたくさん飛んでいて、ライズも多く、真っ暗になる(7時頃)まで釣り、綺麗な尺イワナが釣れて喜んだが、去年見た大物は出なかった。しかし、同行したY本さんは大魚の背が白泡の上に出たのを見たと言う。あのイワナがまだ居るようだった。
7月23日(土)この日、朝からY本さんと北アルプスの源流帯に行ったが小さなイワナが釣れただけで、4時頃には宿に戻った。前日の夕方、ボクはランディングネットをその堰堤の河原に忘れてきていたので、やや疲れていたが、ランディングネットの回収を兼ねて再度その堰堤に向かった。今回はボク一人で行った。
昨日さんざん叩いたから今日はダメかなと思っていたが、行ってみると、そこそこライズがあり、小さなイワナが釣れた。だが、大物らしいライズはなく、暗くなっていった。6時半頃だったか、不意に携帯が鳴った。同行の仲間からの電話かと思ったら、相模原の蕎麦屋からの電話だった。頼んでいたことがあり、その返事であった。暗くなってきて、もう少ししか釣れないので、気が気じゃなかったが、こちらから頼んだ話なので丁寧に応対して、電話を切った。そして、一番大物が出そうな対岸の奥の白泡の消えるあたりに狙いを定めた。そこにフライを落とすにはかなりの技術を要する。途中、木の枝が水面上1.5メートルほどの高さに張り出していて、その下にラインを通さなければいけない。そのためには7フィート以下の竿がいいし、パワーも必要なので、竿はカゲロウロッドのバンブーロッド、メインストリーム7フィート、ラインはWFの4番を用意してきていた。フライはいろいろ試したが、大きめのフライでは見切られていたので14番以下にする必要があったが、それ以下だと大物に逃げられる可能性も高くなるし、だいいち暗い中でフライが見にくくなる。中をとって14番のアダムス・パラシュートにした。ティペットははじめから大物狙いでフロロの5Xにしていた。
電話を切って、すべてをチェックして、バックスペースを確認し、狙い定めてそのスポットに振り込んだ。1発でうまく白泡の切れ目に落ち、フライは流れに乗り、小さな水しぶきとともにフライが消えた。右手が上がり、魚が掛かった!はじめ、魚はスーッと寄ってきたので大物とは思わなかった。手前の浅瀬まで寄せたとき、魚体が見えた。それは、まさに、脳裏に焼き付いていた大イワナだった!〈こりゃあイカン、ゼッタイに失敗できない〉と思った。一世一代の大イワナが掛かったのだった。それまでは石に腰掛けて釣っていたんだが、もう姿勢を低くしている必要はなかった。立ち上がり、浅瀬で両足を開いて仁王立ちをして、万全の体制をとった。急いで余分なラインをリールに巻き取った。そのイワナは何度も深みに突っ込んだ。ボクは少しはラインを出したかもしれないが、ほとんど出さないで魚の疾走をくい止めた、そのための5Xなのだから。ロッドはバットセクションから大きく曲がったが、折れる心配はしなかった、そのためのソリッドのバンブーロッドなんだから。一度ネットですくおうとしたが、大きくてネットに入らなかった。そして考えた。そうだ、手前の浅瀬に引き上げようと。魚を浅瀬の方向に寄せると意外に簡単に浅瀬に入り、岩の横にピタリと付いて動かなくなった。そこは浅く、魚の体の上半分が水面から出ていた。ボクは浅瀬をよろめきながらかけよりイワナにおおいかぶさって、左手に持ったネットに押し込んだ。〈ヤッタァ、捕れたァ〉と心の中で叫んだ。ボクの生涯最大のイワナが釣れたのだった。
あとは急いで写真を撮ってリリースだ。あたりは暗いし、魚ははねるし、こっちの手は震えているし、大騒動だった。メジャーを持っていなかったので魚のサイズを手で測ると50センチメートルを越えていた。証拠写真が要るので、竿と魚を並べて写真を撮った。大イワナは体に斑点がまったくなく、頭部と背部は黒っぽく、体側は黄色というよりなめし革色で、腹側には鮮やかなオレンジ色の斑があった。そして、スゴイ顔をしていた。野生の、老成した、オスの顔だった。
撮影の後は十分に新鮮な水を吸わせ、流れに戻したが、すこし流され、石の下に頭を突っ込んでじっとしていた。こりゃああぶないと思い、魚をすくい上げて、堰堤下の深みの方に離してやると、元気に泳いでいった。うん、よかった、よかった。寿命まで生きろよと思った。 宿に戻ったのは8時頃だったろう。宿では10人以上の仲間が先に食事をしているはずだった。車を駐車場に駐め、歩きながら、どんなふうに皆に報告しようか、あまり自慢しても品がないし、なんて思いながらボクはダイニングルームのドアを開けた。