今日、ある用件でヤドリキ・フライフィッシングエリア(Y.G.L.)に電話したとき、石塚さんという世附川の管理人をしていた人のことが話題になった。
丹沢の南面を流れる世附川は美しい渓流であり、その川の下流部を利用して管理釣り場が作られたのは4-5年前の事だった。自然の渓相をそのまま使い、水質も良く、ほぼ理想的なフライの釣り場であり、僕は気に入ってよく通っていた。
その管理釣り場の管理小屋に石塚さんは泊まり込んで一人で釣り場管理をやった。年は60前だったと思うが、訳ありの独身であり、とても気さくで、一生懸命であり、熊の出る所でもあり、釣り人の安全をいつも気にしていた。フライフィッシングの初心者には懇切に手ほどきをして、彼から習って一人前のフライフィッシャーマンになった人は少なくない。僕がフライフィッシング用語辞典を1冊進呈したら、彼はお返しに自分で作った大又沢の遡行地図をくれたりした。また、彼はカワウの撃退にも独特の方法をあみだしていた。
そして3年前の秋だったか、丹沢に40年ぶりという大水が出て、世附川沿いの道は寸断され、川は土砂に埋まり、釣り場は消滅した。
電話での会話。
「ところで、世附川の釣り場の管理をしていた石塚さんは今どうしてますか、ご存じですかね?」
とボクが聞くと、やや間をおいて、
「え、ご存じなかったんですか。 ・・・ 亡くなったんですよ」
「え、なに、亡くなった、それは知りませんでした。・・・。そんな年じゃあなかったのに」
ボクはショックを受けていた。あの気さくな、やぶれかぶれ人生を送ってきた、にこやかな石塚さんの顔が浮かんだ。
「いつですか、亡くなったのは?」
「そうですねえ、世附の釣り場が閉鎖された半年くらい後だったと思います。工事現場で倒れて、そのまま亡くなったそうです。娘さんたちが面倒見てあげて、うちうちでお葬式をしたそうです」
「・・・。あらあ、ボクはかなり親しかったんですよ。ああいう性格だから健康管理もしていなかったかもしらんなあ」
「そうですねえ、石塚さんも先生のことをよく話してましたよ」
電話を切った後、石塚さんは人生の最後の数年間を川守として幸せに過ごしたんだと思った。たまたまではあろうが、彼は釣り場と運命をともにしたようなものだった。
彼が写っている写真はないかとずいぶん探してみたが、あるのは世附川の渓と山女魚と野の花の写真ばかり。仕方がないから、在りし日の世附川フライ釣り場の写真をお見せしよう。
石塚さんが作った鵜よけ