■バックナンバー
■RSSフィード
RSS 1.0 RSS 2.0 Atom 1.0
■このブログのURL
https://e-jan.kakegawa-net.jp/blog/blog.php?key=730873
2014年06月24日(火) 
 5月に四国の徳島に滞在したとき、モラエスのことを初めて知った。そのときは眉山にあるモラエス館にたまたま入り、モラエスはポルトガル人で海軍中佐であり、神戸で領事となり、日本人と結婚し、余生を徳島で過ごして生涯を終え、墓も徳島にあることを知った。明治から大正にかけての人であり、文筆家で、日本を欧米に紹介した人であった。ボクは感じるところがあり、墓はロープウェイ乗り場のすぐ近くにあると聞いたので、時間をもてあましてもいたし、墓参りに行ったものだ。
 旅行の後、モラエスについて調べてみると興味深い人のようなので、「おヨネとコハル」モラエス著と「孤愁(サウダーデ)」新田次郎・藤原正彦著の2冊の本を買い、今日ようやく読み終わった。
 ボクはなんと言っても、ポルトガルの中流階級に生まれ、親兄弟もいたのに、ポルトガルには帰らず、身分や年金を放棄して、日本に永住することを決意したのはなぜだったのか、ということを知りたかった。
 格差社会で夢も希望も見出せずに世紀末を迎えていた時代のヨーロッパ社会にあったモラエスの眼には、日本は別世界の理想郷に写ったようで、死生観、輪廻思想、諦観、女性のつつましさ、方丈記などに強いインパクトを受けたらしい。ラフカディオ・ハーンという先人が居たことも大きかったようだ。
 くわえて、マカオ在任中に中国系女性と同棲し、2人の子供が生まれたのだが、その女性との関係がこじれ、最後には敵対関係のようになってしまったこと。転任先の神戸で、美しく、つつましい”おヨネ”に会い、惚れ込んで結婚したことがモラエスの一生を決めたように思った。
 人情家で、自分の哲学を持ち、実践した人であった。世俗的名声や富を捨て、個を生きた人であった。神戸のおヨネと徳島でのコハルは若くして亡くなり、モラエスは徳島市伊賀町の長屋に独りで住み、雑炊を作り、七輪でイワシを焼いて、毎日おヨネとコハルの墓参りをしながら執筆を続け、75歳で亡くなった。遺言によって遺体は火葬され、遺灰はコハルの墓に入っている。
 なかなかの人物であった。
 だいぶ違うが、スキューズと共通点があるように思った。


閲覧数830 カテゴリ日記 コメント2 投稿日時2014/06/24 17:53
公開範囲外部公開
コメント(2)
時系列表示返信表示日付順
  • 2014/06/24 19:41
    さん
    お名前:

    「中国系女性と同棲し、(2人の子供が生まれたのだが、その女性との関係がこじれ)、最後には敵対関係のようになってしまったこと」、あらゆる観点から Moraes は、日本人以上に、日本人だったのですね。
    次項有
  • 2014/06/24 20:17
    鉛筆狂四郎さん
    外からの訪問者さん

    そういうことだったんでしょうね。
    現在の日本人ではなく、明治時代の日本人でしょうが・・・。

    外国人が書いた日本観を読むと分かってくることがありますね。
    次項有
  • 次項有コメントを送信
    閉じる
    名前 E-Mail
    URL:
■プロフィール
狂四郎さん
[一言]
■この日はどんな日
ほかの[ 06月24日 ]のブログは、
■最近のファイル
■最近のコメント
■最近の書き込み