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2015年08月30日(日) 
・> 日本がなぜ戦争したかは、新国立競技場問題が教えてくれる[橘玲の日々刻々]
・> 政治学者の丸山真男はこの皇太子狙撃事件を例にあげて、日本社会の特徴は範囲の定めのない無限責任にあると論じました。いったん不吉なことが起きると、関係する全員がなんらかの“けがれ”を負い、批判の矢面に立たされるのです。

日本人には ‘意思’ が無い。意思は未来時制のセンテンスであるが、日本語には ’時制’ (過去・現在・未来のセンテンスの区別) が無い。意思の内容は、個人個人で違っている。だから、問うてみなければわからない。意思が無ければ、利己主義はあっても、個人主義がない。問うてみることもない。没個性の社会となる。
個人に意思が無ければ、その責任もない。だから、問題が生じても、個人をその責任者として名指しすることもできない。いったん不吉なことが起きると、個人の範囲の定めのない無限責任になる。無限責任は、無責任ということ。とかく、この世は無責任。

・> こうした無限責任の社会では、いったん責任を負わされたときの損害があまりにも大きいので、誰もが責任を避けようとします。その結果、天皇を“空虚な中心”とする、どこにも責任をとる人間のいない無責任社会が生まれ、破滅的な戦争へと突き進んでいったのです。

‘空虚’ は、’無責任’ の言い替えに過ぎない。無責任体制では、危険を回避することはできない。これは、’ 武器を持つ・持たない’ の議論の次元を超えている。言語は考える手段であり、文法の問題は、言語教育の問題である。言語のつたなさは、人間そのものの出来具合に関係することになる。

・> 新国立競技場の建設計画をめぐる経緯は、戦後70年を経ても、日本が「責任と権限」という近代のルールからかけ離れた社会であることを白日のもとに晒しました。
・> 事業の発注主体であるJSC(日本スポーツ振興センター)も、監督官庁である文部科学省も、オリンピックを招致した国や東京都、JOC(日本オリンピック委員会)などスポーツ団体も、計画にかかわったとされる政治家たちも次々と責任を否定しますが、この異様な光景も、「なにが起きても自分は責任を取らなくてもいい」という無責任を条件に参加しているのだと考えればよく理解できます。

意思による行動を起こさない人間には、加害者意識はない。気楽な異様な責任者の存在を我々は許すのか。
我が国民は、日本語とともに時制のある英語をも学んで、思考力を鍛える必要がある。




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閲覧数794 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2015/08/30 10:39
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