8月6日(土)の午後にはフライタイヤー(プロ・アマを問わず参加できる)によるアイアンフライ(フライの鉄人)・コンテストが行われた。 これは司会者がマテリアルやパターンを指定し、タイヤーは観客の前で7分以内に1個のフライを完成しなければいけない。”18番フックに○○と××を使ってストリーマーを巻け”とか、とんでもない指示が出されたりして、タイヤーが四苦八苦するのを見て、観客が喜ぶという趣向になっていた。 そして最後の二人が残った。一人は河合宏一さん、もう一人はハッチファインダーズの同僚であるダンディー(女性)で、二人で決勝戦となった。そして優勝したのはダンディーだった。遊びなんだが、優勝したダンディーはとても嬉しそうだった。司会者は制作中の河合さんになんども話しかけ、女性であるダンディーに勝たせたいと思っていることが見え見えだった。これはとても面白い催しで、観客も一緒になって盛り上がったものだ。 この日、クニさんは我々二人をIFFFのミュージアムに連れて行ってくれた。このミュージアムは土曜は休館なのだが、クニさんが頼み込んで我々のために開けてもらったのだそうだ。 それはすばらしいミュージアムだった。蔵書は約2000冊だそうで、歴史的な竿、リール、フライが美しく展示されていた。僕は本には特に興味があるのでメアリー・オービスの名著「私の好きなフライとその歴史」(1892)を探したら置いてあり、そ初版本を初めて見ることができた。 そして、ある竿が展示してあるところで、塩澤さんが大きな声をあげた。それは芦沢一洋さんからFFFに寄贈されたもので、桑原玄辰氏が使っていた和竿のテンカラ竿だった。 「これは私が作ったものです。間違いありません!」 と塩澤さんは、ためつすがめつ竿を眺め、興奮して声高に言っていた。なんと言うことだろうか!塩澤さんは数十年前に自分が作った竿に、アメリカで再会したのだった。同席していたミュージアムの管理人(女性)も驚き、説明文に書き加えますと言い、その英文を僕は手書きで紙に書いて、管理人さんに渡した。塩澤さんは戦後の竿作りの歴史の生き証人であることは僕も承知していたが、そのことがアメリカのリビングストンにおいても証明されたのだった。さらに見て行くと、塩澤さんが作ってアメリカ人に売った箱入りの「櫻バンブーロッド」も同所に展示してあった!塩澤さんの驚きようは尋常ではなかったようで、感慨深げになんども竿を見ておられた。 この日の夜はリビングストン滞在の最後の夜であり、我々二人、クニさん、河合さんの4人で夕食に行った。場所は初日に行ったリブ・アンド・チョップ・ハウス。僕は野球のボールのような変わった形のステーキを食べてみたが、なかなかにおいしかった。 そこではクニさんからIFFFの運営についていろいろと教わった。 「IFFFはボランティア団体ですが、運営にはどうしてもお金が必要で、会費だけでは足りません。そこで個人や企業からの寄付をいただく必要があります。そのお返しとして寄付してくれた企業の名は機関誌やパンフレットに必ず書くようにしています」 「会としてはあまり厳しいことは言わずに、ゆるやかに運営していった方がいいようです。どうかなと思われるようなグループでも取り込んで、肝腎のことは理事会で決めていけばいいのですから」 等々。 IFFFへの訪問はこの日で終わった。やはり現場を見て参考になる事が多かったし、IFFFの極東担当理事のクニさんが何かとアドバイスしてくれるのは、JFFAにとってとてもありがたかった。 別れ際、河合さんが”これ車にありました”と言って渡してくれたのは僕の愛用のパイプだった。ああ、そうか、彼の車に乗ったときに車内に置き忘れたのだった。嬉しかったなあ、お気に入りのパイプがもどってきて。 |