お名前:照井 雅翔
いつも寺嶋先生の考察を共感しながら読ませていただいております。日本の学問は未来を語らない、日本語には階級構造がある、等というのは、以前からその通りだとは思っていましたが、私が考えている理由とは異なっているようです。
先生がおっしゃるとおり日本語の構造の問題もいろいろあるとは思うのですが、私としてはそれ以上に学問のアメリカナイズによるところが多いと考えています(正直私はあまりにアメリカナイズされすぎた日本人があまり好きではありません。彼らにとって「教養主義」は無価値だからです)。
1970年代頃からアメリカの行動論主義が日本に流入したことによって、「脱価値」「脱哲学」による「純科学的」な考察こそが「学問」の名に値すると考えられるようになりました。つまり、可視的な現象を因果論的に解明することこそが学問の課題となるのです。
私の指導教授は政治学者なのですが、その方に限らず、その世代(50代前半~40代後半で特に東京大学出身)の学者は、学問において、如何にそれまで(結論まで)の推論・論証が妥当でも、結論に「あるべき」思考が入ることを嫌い、完全な「である」思考を求めます。私はそのような先生方に、学問は純粋な科学であるべきだとよく言われますが、歴史や哲学を重視する英・仏の学派を支持している私としては、前提とする方法論の違いから、純科学を要求する先生方には必ず低い評価を与えられます。もちろんそれは私の能力不足によるとも考えられますが、「哲学」「歴史学」「基礎法学」等の講義ではよく先生方に高評価をいただくことから、おそらく学派が異なることによる認識・評価の違いでしょう。ただ、日本の大学では学問の「学派」については殆ど語られず、講義はある意味で「完成・自己完結」しているので、先生の議論をしっかりと書かない限り「低評価」と言う結果が出るだけで終わってしまいます。例えば「意義」という語の解釈が異なったために一方的に指導されたこともありました。
英国に滞在された経験がおありならばご存知かもしれませんが、あちらでは17~18際の学生はシックスフォームにおいて思考力の鍛錬を含め相当高度な内容を学習します(バーナード・クリック著、添谷育志ほか訳『現代政治学入門』参照)。今後日本は高等学校及び大学を、「高校」「大学校」から、真の高等教育機関にしなければ日本の将来はないと思います(「ヨーロッパ大学大憲章」参照)。