アドバイス (advice)・プレゼン (presentation)・エンタメ (entertainment)のような日常で使われる言葉は、カナ書き日本語になる。
だが、意思 (will)・使命 (mission)・責任 (responsibility)・哲学 (philosophy)・罪(sin)のような精神に関係した言葉は、カナ書き日本語にならない。これらの言葉が外来語にならないのは日本語と英語の考えが同等でないからであろう。
‘我々はどこから来たか’、’我々は何者か’、’我々はどこに行くか’ の哲学的命題は大切である。’我々はどこに行くか’を念頭において政治論議をしなければならない。さもなければ不毛の議論になる。政治音痴の発言になる。
これらの問いは英語の時制 (過去・現在・未来) に関係している。英米人は、その答えを求めないではいられない。脳裏に内容の空白が存在することは気になることである。そこで、探究心が芽生える。一生懸命考える。
インド哲学なら、前世・現世・来世の内容を問うことになる。
日本語には時制がないので、こうした形式の考え方は成り立たない。
日本語で表現できる内容は実況放送・現状報告の内容ばかりである。だから、我々はどこにも移動しない。
日本人は特に新しいこともなく年中行事を繰り返すばかりが願いである。変わらないのが、天下泰平の世の中である。
英米人の哲学から繰り出されてくる新提案に、日本人はたじろぐばかりである。行き着く先の内容が理解されていなければ使命感もわかない。
意思は個人個人で違っている。
個人の意思を実社会で実現するにはパワー (権力) が必要になる。
リーズナブルな意思の持ち主を選挙民が選出して、政治のパワーを与える。小異を捨てて、大同につく過程である。
政治指導者は、パワーを使って自分の意思を社会的に実現する。
この方法により個人の意思による社会変革が可能になる。未来社会の建設も可能になる。
日本人社会のように意思が存在しない社会であれば、話はまた違ったものになる。
意思のないところにパワーを与えても有害無益である。恣意に力を与えることにしかならない。
政治責任者には、何もしないで任期を全うしてもらうのが良いという状態になる。不自由を常と思えば不足なし。アニマルも同じである。
意思のない人々の間では、選出時に指導者の意思の内容のチェックはなされていない。であるから、たとえルーピーであつても ‘やつてみなければわからない’、’なってみなければわからない’ という状態になる。
ただ ‘私を信頼せよ’ とだけ言う。未来構想が筋道だって成り立たないということは、どこかに矛盾が混入しているということである。外交政策はそこで破たんする。
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